ポイントロバーツに関する条約の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:57 UTC 版)
「ポイントロバーツ (ワシントン州)」の記事における「ポイントロバーツに関する条約の歴史」の解説
メキシコ領カリフォルニアとロシア領アメリカの間で、アメリカ人にはオレゴン・カントリー、イギリス人にはコロンビア地区と呼ばれた論争のあった地域をアメリカとイギリスが共同領有した後、インディアナ州選出のアメリカ合衆国上院議員エドワード・A・ハネガンなどアメリカ人拡張論者が、ジェームズ・ポーク大統領を促して、北緯54度40分までのオレゴン・カントリー全体を併合させようとした。民主党員は「54度40、さもなくば戦い」をスローガンに選挙で選ばれていた(オレゴン境界紛争)。 ポークとその国務長官ジェームズ・ブキャナンは、コロンビア盆地の北にアメリカ人1人だけ(元はイギリス人)住んでいるとしても、全領土をアメリカのものとするのは問題があると考え、バンクーバー島を横切る北緯49度線を境界線として提案し、バンクーバー島の港を除いてその線より南ではイギリスに商業的権益が認められないものとした。この提案はイギリスから拒絶され、それから間もなくアメリカも引き下げた。 1846年4月18日、共同領有を定めた1818年条約(英語版)を撤廃する共同決議をアメリカ合衆国議会が採択したことが、ロンドンに伝えられた。 イギリスの特使リチャード・パケナムは、アメリカ合衆国について予測できる最後の譲歩は、北緯49度線の境界線をバンクーバー島の南端で曲げて来るということを以前に助言していた。ビクトリア砦は将来この島の開拓地の中心になると見られていた。この頃にバンクーバー島をイギリス領北アメリカの一部としておくために、ローワー・メインランドの領地を諦めることが必要だと考えられるようになった。 イギリスの外務・英連邦大臣アバディーン卿が、北緯49度線を海までの境界とし、バンクーバー島全域をイギリスのものとする条約を提案した。オレゴン条約は1846年6月15日に締結された。 北緯49度線を国境として受け入れたが、それがどのように影響するか正確な知識を持っていた訳ではなかった。後に国境委員会が測量を行うと、ポイントロバーツのある半島がアメリカ合衆国の孤立した地点になることを、イギリス政府は理解した。イギリス外務省はイギリス国境委員のジェイムズ・プレボスト船長に、アメリカの委員に状況を伝え、ポイントロバーツをイギリス領に入れるよう要請するよう指示した。アメリカ側に大きな不都合が生じることが予測できたからだった。アメリカ側の委員がそれを認めるのを躊躇う場合、「メインランドの境界線を幾らか修正して、それを補う」提案をするよう指示されていた。アメリカ側の委員がどう反応したか現在は不明であるが、ポイントロバーツはアメリカ合衆国領になった。
※この「ポイントロバーツに関する条約の歴史」の解説は、「ポイントロバーツ (ワシントン州)」の解説の一部です。
「ポイントロバーツに関する条約の歴史」を含む「ポイントロバーツ (ワシントン州)」の記事については、「ポイントロバーツ (ワシントン州)」の概要を参照ください。
- ポイントロバーツに関する条約の歴史のページへのリンク