ペルーボリビア連合国とは? わかりやすく解説

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ペルー・ボリビア連合国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 15:31 UTC 版)

ボリビアの歴史」の記事における「ペルー・ボリビア連合国」の解説

1825年10月3日ボリビア議会スクレ大統領選出しボリビア共和国発足した。翌1826年2月ボリーバルリマにてボリビア憲法草案作成着手し5月ボリビア議会提出11月8日にはボリビア憲法公布された。この当時人口はおよそ110万人で、80万人という大半人々ケチュア語アイマラ語を話す原住民20万人スペイン語を話す白人残り10万人がメスティーソチョロ黒人奴隷などであった斜陽化した鉱業に取って代わるものとしてキナ皮コカといった農産物生産活性化したが、大農園プランテーション発展により原住民地位はかえって不安定となり半農奴的な労働者流民などに転落していった。こうした状況立て直すためスクレ労働徴発廃止教育世俗化といったリベラルな政策打ち出したが、保守的なクリオーリョたちの反発会い1827年国外へ追放された。 1829年アンドレス・デ・サンタ・クルス大統領就任すると、独立後の疲弊した国土経済安定化目指し社会的改革着手しはじめた国内綿衣産業活性化目指し外国からの綿製品輸入一時停止貿易港制限関税値上げといった国内産業保護政策打ち出す一方で政府機能、教育機関医療施設充実化を図り今日ボリビア基礎築いていった。また、諸外国との貿易有利に進めるため、あるいはチリアルゼンチン対抗するためにはペルーとの連携不可欠としてペルー・ボリビア連合構想打ち出した1835年1月サンタ・クルスペルーの親サンタ・クルス派を救済するという名目ペルー介入ペルーのアグスティン・ガマーラ(英語版)を破り、翌1836年10月には南北ペルーボリビア三国からなるペルー・ボリビア連合国を樹立した。これに対し南米太平洋岸の経済・軍事バランス著しく変化することを恐れたチリのディエゴ・ポルタレスは同年12月ペルー・ボリビア連合に対して宣戦布告行いアルゼンチンや反サンタ・クルス派と共同歩調取りつつ侵攻し、ペルー・ボリビア連合国軍に壊滅的な打撃与えたサンタ・クルスヨーロッパへ亡命し指導者失ったペルー・ボリビア連合はわずか3年後1839年瓦解したその後再度ボリビアとの併合目指しペルーのアグスティン・ガマーラ(英語版)やサンタ・クルス派などの侵攻があり、国内情勢混乱したが、ホセ・バジビアン在任1841年 - 1847年)、ホセ・ミゲル・デ・ベラスコ(在任1847年 - 1848年)、マヌエル・イジドロ・ベルスー(スペイン語版)(在任1848年 - 1855年)といった政情収拾重視した政権尽力により、次第安定見せ始めた

※この「ペルー・ボリビア連合国」の解説は、「ボリビアの歴史」の解説の一部です。
「ペルー・ボリビア連合国」を含む「ボリビアの歴史」の記事については、「ボリビアの歴史」の概要を参照ください。

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