ペルー・ボリビア連合国
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「ボリビアの歴史」の記事における「ペルー・ボリビア連合国」の解説
1825年10月3日、ボリビア議会はスクレを大統領に選出し、ボリビア共和国が発足した。翌1826年2月、ボリーバルはリマにてボリビア憲法の草案作成に着手し、5月にボリビア議会に提出、11月8日にはボリビア憲法が公布された。この当時の人口はおよそ110万人で、80万人という大半の人々がケチュア語やアイマラ語を話す原住民、20万人がスペイン語を話す白人、残り10万人がメスティーソやチョロ、黒人奴隷などであった。斜陽化した鉱業に取って代わるものとしてキナ皮やコカといった農産物の生産が活性化したが、大農園やプランテーションの発展により原住民の地位はかえって不安定となり半農奴的な労働者や流民などに転落していった。こうした状況を立て直すためスクレは労働徴発の廃止や教育の世俗化といったリベラルな政策を打ち出したが、保守的なクリオーリョたちの反発に会い、1827年に国外へ追放された。 1829年、アンドレス・デ・サンタ・クルスが大統領に就任すると、独立後の疲弊した国土と経済の安定化を目指した社会的改革に着手しはじめた。国内の綿衣産業活性化を目指して外国からの綿製品輸入の一時停止、貿易港の制限、関税の値上げといった国内産業の保護政策を打ち出す一方で政府機能、教育機関、医療施設の充実化を図り、今日のボリビアの基礎を築いていった。また、諸外国との貿易を有利に進めるため、あるいはチリやアルゼンチンに対抗するためにはペルーとの連携が不可欠としてペルー・ボリビア連合の構想を打ち出した。 1835年1月、サンタ・クルスはペルーの親サンタ・クルス派を救済するという名目でペルーへ介入、ペルーのアグスティン・ガマーラ(英語版)を破り、翌1836年10月には南北ペルーとボリビアの三国からなるペルー・ボリビア連合国を樹立した。これに対し、南米太平洋岸の経済・軍事バランスが著しく変化することを恐れたチリのディエゴ・ポルタレスは同年12月にペルー・ボリビア連合に対して宣戦布告を行い、アルゼンチンや反サンタ・クルス派と共同歩調を取りつつ侵攻し、ペルー・ボリビア連合国軍に壊滅的な打撃を与えた。サンタ・クルスはヨーロッパへと亡命し、指導者を失ったペルー・ボリビア連合はわずか3年後の1839年に瓦解した。 その後、再度ボリビアとの併合を目指したペルーのアグスティン・ガマーラ(英語版)やサンタ・クルス派などの侵攻があり、国内情勢は混乱したが、ホセ・バジビアン(在任:1841年 - 1847年)、ホセ・ミゲル・デ・ベラスコ(在任:1847年 - 1848年)、マヌエル・イジドロ・ベルスー(スペイン語版)(在任:1848年 - 1855年)といった政情収拾を重視した政権の尽力により、次第に安定を見せ始めた。
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