ペヨーテ信仰の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 08:36 UTC 版)
「ネイティブ・アメリカン・チャーチ」の記事における「ペヨーテ信仰の歴史」の解説
主流であるキリスト教の宗派の多くは、アメリカ先住民族をキリスト教に改宗しようとした。多くの部族においてキリスト教の教義が反映されることになり、ネイティブ・アメリカン・チャーチおいてもそうである。キリスト教への改宗は遅々としており、ネイティブ・アメリカン・チャーチは簡単に広まった。 オクラホマ州で形作られた当初、ネイティブ・アメリカン・チャーチは一神論であり、グレート・スピリットと呼ばれる最高の存在を信仰した。ネイティブ・アメリカン・チャーチの信条は、ペヨーテを崇拝し聖なる秘跡とみなすことであり、ペヨーテがグレート・スピリットとつながるために使用される。 1901年を境に、この信仰がアメリカ西部へと大きく広まっていくことになる。創始者であるウィニベイゴ族のジョン・レイヴは大酒飲みの厄介者であったが、1901年に放浪の旅に出て、そこでペヨーテの体験をし素晴らしい体験であったため、帰郷して人々にペヨーテを勧めた。ジョンは、最初はしつこくあてがわれたのでペヨーテを口にしたが、そのヴィジョンでは恐ろしい生き物に追いかけられたためペヨーテが怒ったのだと解釈し、「この世が存在する限りにおいて使わせていただきます」と叫んだ。次の晩には、神を見て「あなたに祈りを捧げるので、これがどういう信仰なのか教えてください」と叫び、そして、暁の星を見て幸福に包まれ、故郷の家族や親戚がまざまざと目に見えてきた。そして、これを部族の人々にも知らせたいと強く思った。故郷に帰り広めると、ペヨーテによって人々は飲酒をやめるようになり、道を説くようになり、こうして大きくなっていった団体に、飲酒癖のあるアルバート・ヘンズリーが加わり聖書をもたらした。ヘンズリーのペヨーテ体験は最も激しいものと言われ、恍惚となり天国と地獄のヴィジョンを見た。人々がこのペヨーテ派にどんどん改宗していくこととなった。 ペヨーテは2001年以前の段階でアメリカ合衆国やカナダ西部の40以上の部族の間で神聖な植物として用いられているが、その中で初めてペヨーテと関わりを持つようになったのはカイオワ族(Kiowa)およびコマンチ族(Comanche)で、メキシコ北部の先住民族を訪ねた際にその存在を知ったものと思われる。メキシコ国境の北部地方において普及しているペヨーテ儀式がカイオワ・コマンチ型のものであることから、両部族が信仰の積極的な普及に関わっていたと見ることが可能である。アメリカ合衆国の先住民は19世紀後半まで特別居留地に押し込められていた上に、その伝統文化の多くも解体され、消滅しつつあった。このような逆境の中、オクラホマに移住した部族の首長たちは、合衆国内の進歩的な部族のために新しいペヨーテカルトを積極的に拡散させることを始めた。その運動を最も積極的に提案したのが、先述の証拠からカイオワ・コマンチの両部族であったと推定される。こうしてペヨーテカルトは急速に普及したものの、儀式の内容に対しては宣教師や地方政府団体が激しく反発し、更にこれを受けた地方自治体がたびたび信仰への弾圧となりかねないような法律を制定した(参照: #法律)。そこで先住民たちは彼らの宗教活動の自由の権利を守るべく、法律上承認されている宗教団体である先住民教会にペヨーテカルトを組み込むこととした。こうしてこの運動の会員は1922年には1万3300人であったものが、1993年には70以上の部族に30万人が確認されるまでになった。1997年以前の段階では、信者数はおよそ10万人から22万5千人と推定されている。 ただ、儀式のためのペヨーテを確保するのに難儀が見られる場合もある。居住地にペヨーテが自生していないアメリカ先住民の場合、儀式に用いるのは乾燥品の頭部、メスカルボタン(英: mescal button)となるが、これを合法的に採取したり、アメリカ合衆国郵便公社を通じて配達品を購入したりすることにより確保している。またメキシコ先住民の習慣に倣って、サボテンを集めるための巡礼者を送り出しているアメリカ先住民も存在するが、アメリカ合衆国内の先住民の大半は通信販売によって必要となるものを入手している。
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