ベンノ・オーネゾルク事件
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「カール=ハインツ・クラス」の記事における「ベンノ・オーネゾルク事件」の解説
1967年6月2日、クラスはベルリン・ドイツ・オペラ前で行われていたイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの国賓訪問に反対するデモの中に紛れ込んでいた。警察では数ヶ月前からデモ発生を見越しており、警官隊がデモ隊を狭い範囲で包囲した上で、警棒や放水車を用いてその動きを制御するという戦術を整えていた。一方、デモの制御とは別にデモ扇動者を検挙するための計画も用意されており、これは「狐狩り作戦」 (Füchse jagen) と通称された。この作戦では扇動者を捜索するためにクラスのような私服警官らが民衆の中に紛れ込むこととされており、彼らは警察向け標準官給拳銃のワルサーPPKを装備していた。 ベルリン市長ハインリヒ・アルベルツ(ドイツ語版)による命令に反して、警察はオペラ公演中にデモ隊の一斉検挙に乗り出した。この際、通常の鎮圧作戦で必須とされているデモ隊への退去勧告などは一切行われなかった。警官隊はデモ参加者を次々と検挙し、路地裏や建物の中に逃げようとする者も追跡した。この中で、クラスと10人ほどの制服警官はデモ隊の一部がクルメ通り66/67番地 (Krumme Straße 66/67) の住宅の中庭に逃げ込んだとして追跡している。中庭に突入した警官隊は数人の参加者を捕らえたが、このうちの1人こそがベンノ・オーネゾルクであった。彼は3人の警官に拘束された上で暴行を受けていた。そして20時30分、クラスはワルサーPPKを抜いてオーネゾルクの頭を至近距離から銃撃した。ある目撃証言によれば、およそ150cm程度の高さで発砲炎が光り、その後にオーネゾルクが倒れたという。他の目撃者は射殺直後に同僚警官らがクラスに掛けた次のような言葉を聞いたという。 「ここで撃つなんて、気が狂ったか?」(Bist du wahnsinnig, hier zu schießen?) - 「(拳銃から)弾が出てしまったんだ」(Die ist mir losgegangen) また、射殺直前の様子が録音されたテープでは、次のような命令が明確に聞き取れるという。 「クラス、すぐに下がれ! さあ! 早く離れろ!」(Kurras, gleich nach hinten! Los! Schnell weg!) クラスには刑事訴訟法の原則に反し、夜のうちにオーネゾルクの死体の検分が許された。彼は殴打による血腫を直接の死因として、「非常に運が悪く」殴打を顔面に受けたために死亡したのだと宣言した。 オーネゾルクは西ベルリン市内の病院へ搬送される途中に死亡したが、救急車内で医師が応急処置を試みると最初は警官に遮られていたという。公的な死亡診断書の死因欄には、主任医師の指示により「鈍器による頭部外傷」と記された。翌朝、解剖医は左頭部に銃創らしき痕跡を見つけたが、その周囲の頭蓋骨は鋸で切除され、また皮膚も縫い合わされていた。すぐに失われた頭蓋骨の一部の捜索が始まったものの発見されることはなかった。
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