ベトナム民主共和国の成立
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「ホー・チ・ミン」の記事における「ベトナム民主共和国の成立」の解説
大日本帝国軍の敗北が決定的になった1945年8月、ホー・チ・ミンは政権奪取にむけて行動を開始した。8月13日から8月15日にかけてホーは、トゥエンクアン省ソンズオン県タンチャオ社にてインドシナ共産党全国大会を開いて全国的な総蜂起を決議する。8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受諾した旨が短波放送による玉音放送で伝えられ、ベトナムが事実上無政府状態となると、8月16日に国民大会 を開催して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出し、国際的に知られた名前である「グエン・アイ・クオック」の名を以て全国総蜂起のアピールを発した。 こうしてベトミンの指導下における全国的な民衆蜂起すなわちベトナム八月革命が始まった。 8月19日フランス領インドシナの中心都市であるハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握。南部の中心都市であるサイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ホー率いるベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホーは首相兼外相に選出された。 8月30日にバオ・ダイ帝が退位し、日本の傀儡国家となっていた阮朝・ベトナム帝国が滅亡した。かくして大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった同年9月2日、ホー・チ・ミンはハノイにおいてベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国して国家主席兼首相に就任した。 ホーはベトナム民主共和国の国家建設を進めていく。国家主席兼首相に就任 したホーは社会主義を国家運営の原則とした。しかし建国の際に発表された閣僚名簿では、閣僚15名のうち共産党員は6名で残りの9名は非共産党員であった。 また1945年11月には、民族統一を優先して共産党が前面に出ることを避け、諸勢力を糾合するためにインドシナ共産党の解散とベトミンへの合流を宣言した。当然、共産党解散は「偽装工作」であり、ベトミン内に共産党組織は温存されたものの、1951年2月に共産党が再建されてベトナム労働党が結成されるまでは公然と共産党は活動できなかった。 1946年にホーが中心となって制定された憲法には、社会主義国家にみられる共産党組織による国家の指導規定は見られず、人権規定や私有財産権についてはフランスやアメリカの憲法を参照したと見られる。つまりベトナム民主共和国の『社会主義化』を漸進的に行おうとしたのである。
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