プロフットボールでの経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 23:52 UTC 版)
「ビル・ウォルシュ」の記事における「プロフットボールでの経歴」の解説
1966年、AFLのオークランド・レイダースのアシスタントコーチ(RBコーチ)に就任した。レイダースのアシスタントコーチとしてウォルシュは、アル・デービスお気に入りの、シド・ギルマンによるヴァーチカル・パッシング・オフェンスを学んだ。ギルマンのシステムは試合のあらゆる状況を想定して周到に準備を行うことに特徴があり、ウォルシュはこのシステムにもっとも強い影響を受け、自身のオフェンス哲学の基本になっていると語っている。ウォルシュは後にそのオフェンス哲学を、水平方向へのパスを主体にしたアプローチへと修正した。しかし、レイダースでのコーチ生活はそのほとんどを仕事のために費やすことを要求されるもので、そのためウォルシュは1シーズンコーチを務めた後に辞任した。 彼はその後サンノゼ・シティ・カレッジで講師をしながら地元のフットボールチームのコーチをしていたが1968年シーズンに新しくできたAFLのエキスパンションチーム、シンシナティ・ベンガルズに迎え入れられ、ポール・ブラウンの下で7シーズンに渡りチームのオフェンスコーチを務め、QBのケン・アンダーソンやWRのアイザック・カーティスらを育てた。 1975年シーズンを最後にブラウンがヘッドコーチを引退しビル・ジョンソンを後任に指名するとウォルシュは辞任して1976年シーズン、サンディエゴ・チャージャーズでトミー・プロスロのアシスタントコーチを務めた。2006年のインタビューにおいてウォルシュはベンガルズに在籍中、ブラウンが「私がリーグのどのチームであろうとヘッドコーチ候補に挙げられることに反対した」と主張した。「私にはずっとその機会があったが、私はずっとそれを知らなかった。」「その後私が彼のもとを去ったとき、彼は私がNFLに留まることができないように思いつく限りの人々に電話をかけた。」とウォルシュは語っている。 1977年、ウォルシュはスタンフォード大学のヘッドコーチに就任し、2シーズンを過ごした。彼の率いたチームは1977年は9勝3敗でサンボウルに勝利し、1978年は8勝4敗でブルーボネットボウルに勝利した。彼がスタンフォード大学で育てた著名な選手には、クォーターバックのガイ・ベンジャミンやスティーブ・ディルズ、ワイドレシーバーにはジェームズ・ロフトンやケン・マージェラム、ランニングバックにはダリン・ネルソンなどがいる。ウォルシュは1977年にPAC-8 コーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した。 1979年シーズン、ウォルシュはサンフランシスコ・フォーティナイナーズのヘッドコーチに就任した。チームはそれまで長く低迷しており、1978年シーズンは2勝14敗で最下位だったフォーティナイナーズはウォルシュが就任した1979年シーズンも同じ成績で終えた。ウォルシュは自身にこの悲惨な状態を好転させる能力はないのではないかと自信を失いかけたが彼は1979年のドラフト3巡でノートルダム大学からQBのジョー・モンタナを獲得していた。 1980年シーズン、ウォルシュは先発QBにモンタナを起用し6勝10敗で終えた。フォーティナイナーズが初めてチャンピオンシップに優勝したのは1981年で2勝しかできなかったシーズンからわずか2年後のことだった。 ウォルシュのもと、フォーティナイナーズは第16回スーパーボウルでシンシナティ・ベンガルズを、第19回スーパーボウルでマイアミ・ドルフィンズを、第23回スーパーボウルで再びシンシナティ・ベンガルズを破り優勝した。ウォルシュはフォーティナイナーズのヘッドコーチを10年間務め、在任期間中彼と彼のコーチングスタッフはウェストコーストオフェンスとして知られるプレイスタイルを完成させた。 ウォルシュがドラフトあるいはトレードで獲得した著名な選手には、ジョー・モンタナの他、ロニー・ロット、チャールズ・ヘイリー、およびジェリー・ライスをドラフトし、1987年のドラフト2巡と4巡指名権とのトレードでタンパベイ・バッカニアーズからスティーブ・ヤングを獲得している。彼のフォーティナイナーズでの成功を讃え、1993年にプロフットボール殿堂入りした。
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