プリマスロック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/03 06:24 UTC 版)

プリマスロック(Plymouth Rock)は、アメリカ原産のニワトリの品種である。
概要
アメリカのマサチューセッツ州で品種改良されたニワトリで、卵肉兼用種として飼育されている。「横斑プリマスロック」と、横斑プリマスロックから突然変異で生まれた「白色プリマスロック」がおり、白色プリマスロック種の雌と「白色コーニッシュ」種の雄と掛け合わされた交配種は、肉用鶏におけるブロイラーの主流となっている。
横斑プリマスロックと白色レグホーンの交配種は「ロックホーン」種と呼ばれる。ロードアイランドレッドの雄と横斑プリマスロックの雌との交配種の雌は「ゴールデンネック」と呼ばれ、このひよこも黒い羽毛だが顔の一部などがこげ茶色になり、成鳥は全体的には黒色で頸部や胸部の一部が黄褐色となる。
横斑プリマスロック
1874年にアメリカで公認されたアメリカ原産種[1]。日本でも明治19年(1886年)に輸入されているため、現在では明治までに国内へ導入され定着した品種であるという理由等で、日本農林規格において日本在来種として記載されている[2]。
日本で飼育されるプリマスロックは「横斑プリマスロック」種が一般的で成鳥は白と黒の横
当初は、食肉用鶏、卵用鶏として使用されていたが、現在では肉用鶏として横斑シャモと交配させた青森シャモロックや、薩摩鶏と交配させた黒さつま鶏など、各地の地鶏や銘柄鶏の作出にも使われている[1]。
白色プリマスロック
白色プリマスロック(はくしょくプリマスロック、White Plymouth Rock)は、横斑プリマスロック種の突然変異によって出現し、1888年にアメリカで公認されたアメリカ原産鶏種[3]。
肉用種は、ブロイラーの雌系統として多く用いられている[3]。薩摩鶏と交配させた、さつま若しゃもなどの地鶏作成にも用いられている。
近年はホワイトロック(White Rock)と呼ばれる[4]。
脚注
関連項目
外部リンク
- ニワトリの品種 - 独立行政法人家畜改良センター兵庫牧場
プリマス・ロック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/12 13:43 UTC 版)
プリマス・ロック(Plymouth Rock)とは、いわゆる「巡礼始祖(ピルグリム)」が、1620年にメイフラワー号からプリマス(現在のマサチューセッツ州東岸)に上陸した際、最初に踏んだとされる岩。アメリカ合衆国についての著作で知られるアレクシス・ド・トクヴィルも、この岩についての言及を残している。
概要
プリマス・ロックについての記述は、17世紀の史料上見いだすことができない。例えば、プリマス植民地の総督であったウィリアム・ブラッドフォードも、自らの年代記においてこの岩について言及を残していない。1741年、エルダー・トマス・フォーンスという老人の証言によって、「プリマス・ロック」がピルグリムが最初に踏みしめた岩だとされた。当時94歳だったとされるフォーンスがプリマス植民における初期の世代であったことと、それらしき岩が周囲に見当たらなかったことから、高い信憑性をもってこの話が人々に受け入れられた。
アメリカ独立戦争の勃発直前である1774年、海面に突出していたこの岩を引き揚げて市広場に設置する試みが、実施に移された。しかし、力ずくで引っ張ったために岩の上部が割れてしまい、その上部のみを市広場に置くことになった。1834年には、岩は「ピルグリム・ホール」へと移転し、1880年には再び海岸へと戻された。この際、「1620」という数字が刻まれることになった。
いわば神話としての「アメリカ史」に大きく寄与した岩であるが、単なる岩が1つあるだけなので、アメリカ合衆国最大の「がっかり名所」という者もいる。[誰?]
白人にとって記念すべきこの岩は、インディアンにとっては侵略と民族浄化の象徴である。1970年の「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動(AIM)」のインディアン活動家のラッセル・ミーンズらがメイフラワー2世号のマストにAIMの旗を掲げ、「プリマス・ロック」をトラック1台分の土砂で埋めてみせるという抗議行動を行った。
外部リンク
- プリマス・ロック(英語)
参考文献
- 大西直樹 『ピルグリム・ファーザーズという神話』 講談社選書メチエ、1998年
プリマス・ロック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
詳細は「プリマス・ロック」を参照 ピルグリムの上陸を忍ぶ象徴の一つがプリマス・ロックである。プリマスの上陸地点近くにあった花崗閃緑岩の大きな岩の露出部である。しかし、この岩が上陸地点にあったということに言及している当時の証言は無い。ピルグリムが上陸地点に選んだのは岩場ではなく、清水を確保し魚が取れた小川だった。 最初にプリマス・ロックを実際の上陸地点だとしたのは、1741年の当時90歳のトマス・フォーンスであり、その父親は1623年つまり最初の上陸の3年後にプリマスに到着していた。この岩は後に支柱に支えられた屋根で保護された。1774年、岩を掘り出すことが試みられたが2つに割れてしまった。幾つかのかけらがプリマスの中心部にあるタウン・スクェアに置かれた。1880年、埋まったままの方の岩が掘り出され、壊れたかけらも元のように付けられた。その後何十年も、お土産に岩のかけらを持ち帰る者がおり、残った岩は今ではアービング博物館の複合的建物の中で保護されている。この博物館には、渡航船の復元であるメイフラワー2世号、1620年の入植地を再現したプリマス・プランテーション、および17世紀インディアンの集落を再現したワンパノアグ集落がある。 1970年には、「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」として、華やかな式典行事が行われた。 しかし白人にとって記念すべきこの岩は、インディアンたちにとっては侵略と民族浄化の忌まわしい象徴である。この「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動(AIM)」が式典に乱入し、抗議行動を行った。 スー族AIM活動家のラッセル・ミーンズらはこのとき、記念展示されていた「メイフラワー2世号」に乗りこんでマストにAIMの旗を掲げ、また土砂を満載したトラックを乗り付け、「プリマスの岩」を土砂で埋めてみせた。
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