フリンジ・バンキング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/18 08:23 UTC 版)
フリンジ・バンキングとは銀行の「周辺部」(fringe)で行われる取引を指す 投資会社であったSGウォーバーグ(英語: S. G. Warburg & Co.)は1963年以前からスウェーデン・クローネ等の通貨で国際債を発行していた。 1962年からイギリスでアイスランドとベルギーの外債が無記名で発行された。1963年4月に発表され8月から実施された税制改革により、無記名証券の発行が認められた。無記名証券は第二次世界大戦前にも発行されており、その際6%の税金が課されていた。無記名証券発行の税率は、イギリス居住者発行の場合3%、非居住者の場合2%へと引き下げられた。この税制改革がロンドンへユーロ市場をひきつける誘因となった。 1963年に発行されたアウトストラーダ社債がドル建てユーロ債の最初とされる(同社債1500万ドルは7月発行)。アウストラーダ社債の発行幹事は、SGウォーバーグ、ドイツ銀行、ブリュッセル銀行、ロッテルダム銀行だった。 市場形成期にはユーロ債の八割程度が最終的にスイス三大銀行(スイス・ユニオン銀行、クレディ・スイス、スイス銀行コーポレイション)が引きうけ、スイス内外の顧客へ売って消化させたといわれる。スイスに次ぐ販売先はベネルクス三国であった。最終的な買い手は、大陸ヨーロッパの富裕な個人投資家であったり、また機関投資家では、スカンジナビアやギリシャの海運会社、スカンジナビアの保険会社、イスラエルの中央銀行、ロンドンのクラウンエージェント、スイス三大銀行が運営する投資信託などである。1964年には国連の年金基金がニューヨークの信託会社のロンドン支店を受託者としてユーロ債へ投資していた。 ユーロ債はセカンダリー・バンキングに使われていたのである。1968年、マニュファクチャラーズ・ハノーヴァー(英語: Manufacturers Hanover Corporation)のミノス(Minos Zombanakis)が、社長から500万ポンドをもらって、LIBORを売り込むために子会社としてのマーチャント・バンク(Manufacturers Hanover Ltd)をロンドンに設けた。同年1月アメリカは直接投資規制を実施したので、米系多国籍企業は海外での資金調達を余儀なくされた。1960年代後半から70年代初頭、米銀の海外支店網の整備が急速に進んでいった。彼らがシティに代わってオイルショックの金融を担った。
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