フサインとの決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)
1366年の春の終わりに、サマルカンドにフサインを指導者、ティムールを補佐役とする政権が成立した。しかし、ティムールとフサインの関係はより悪化する。フサインがティムールの支持者たちに重税を課した時、ティムールは妻の装飾品を売ってまでも彼らの債務の支払に協力したためにティムールの信頼は高まり、逆にフサインは支持を失った。また、ジャライル部やアパルディー部はティムールの裏切りを伝える偽の報告をフサインの元に送り、両者の決裂は決定的になる。この時期にティムールが寵愛した妻ウルジェイ・タルカン・アーガーが亡くなり、フサインの妹であるウルジェイの死によって二人の対立はより深まった。 1366年の秋にティムールはフサインからカシュカダリヤのカルシを奪還し、さらにブハラを攻撃した。フサインはマー・ワラー・アンナフル奪還を目指してブハラとサマルカンドを制圧、ティムールは一時ホラーサーンに退くが、モグーリスタンとの戦いに備えて二人は講和した。この時にはジャライル部やスルドゥズ部といった有力部族がフサイン側に付いており、ティムールは不利な状況下に置かれていた。講和後にティムールはフサインの政権下で起きた反乱の鎮圧に協力するが、ティムールを警戒するフサインは自身の本拠地であるバルフの改築を決定する。工事に要する多額の費用を捻出するために住民に重税が課されたため、ティムールは工事の中止をフサインに進言するが聞き入れられなかった。また、遊牧生活を営む諸部族もフサインの工事に反対し、ティムールの支持に回った。 1369年にティムールはアムダリヤ川を渡河してバルフへと進軍し、行軍中に多数のアミールや諸勢力がティムール軍に合流する。バルフへの進軍中、テルメズ付近でティムールはスーフィズム(神秘主義)の聖者サイイド・バラカ(英語版)に出会う。ティムールはバラカに寄進を行い、彼から権力者の象徴である太鼓と旗を授けられた。バルフ攻撃前、ティムールはモンゴル帝国の第2代大ハーン・オゴデイの末裔であるソユルガトミシュをハンに擁立した。これはカザガン一族に対抗する意思を表明したと考えられているが、形式の上ではハンを立てるカザガン一族の方針は継承していた。 勝ち目のないことを悟ったフサインが降伏を申し出ると、ティムールはフサインに助命を約束した。バルフから脱出したフサインはティムールの元に向かわず廃墟に身を隠したが、密告者によってティムールに引き渡される。ティムールは約束に従ってフサインを助けようとしたが、ティムールの同盟者であるフッターン・バルラス部のカイフスロ(ケイ・ホスロウ)の手によってフサインはアーディル・スルターン・ハンとともに処刑された。フサインの死を知った西チャガタイ・ハン国の部族長達はバルフのティムールの元に赴き、ティムールは慣習に従って彼らにマー・ワラー・アンナフルの支配を宣言した。1370年4月9日/10日にティムールは豪壮な式典を開き、ハンに即位する意図は無いこととイスラム教を国教とする意思を表明した。 戦後、バルフではフサインを支持した住民への報復として略奪が行われ、内城が破壊された。フサインの2人の息子は火刑に処され、ティムールはフサインが抱えていた妻のうち4人を自分の妻として残りの女性を配下の部族長たちに分け与えた。ティムールが娶った妻の一人であるサライ・ムルク・ハーヌムはチャガタイ・ハン・カザンの娘にあたり、チンギス家の娘を娶ったティムールは「ハーンの娘婿」を意味する「キュレゲン」の称号を名乗った。 同1370年、ティムールはサマルカンドに移動して首都に定め、城壁、内城、宮殿を建設して外敵に備えた。
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