ビルマ式社会主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:49 UTC 版)
こうした実績に自信がついた1962年には、軍事クーデターを決行してビルマに事実上の軍事政権を樹立した(ビルマのクーデター (1962年)(英語版))。ビルマ独自の社会主義政策(ビルマ式社会主義)を採り、連邦革命評議会議長を経て1974年から大統領になった。7年後に辞職した後もビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長を務め国政に君臨した。この期間のビルマは、外交では厳正な非同盟中立政策を採り、ビルマ共産党や各地の少数民族民兵組織との内戦において、諸外国の介入を防ぐ事に成功する。1965年以降ビルマ共産党をめぐって緊張関係となった中華人民共和国とも1971年3月に和解して経済援助を受けるようになり、ベトナム戦争など近隣諸国の混乱にも巻き込まれずに済んだ。 しかしながら1970年代にはクーデター計画の発覚や、政権幹部の追放により国内が動揺。閣僚や企業のトップに軍人を優先して据えて対処した。1978年には経済は低迷したままといえども国内は安定を取り戻し、ネ・ウィンも2か月間海外での長期療養を行った。 1983年にはラングーン事件が発生。ビルマ国内でテロを行った北朝鮮との国交を断絶し、国家承認の取り消しという厳しい措置を行い、1985年にアウンサン廟を再建させた。しかし、経済政策では完全に失敗し世界の最貧国に転落した。 1988年に国民の不満が爆発して民主化運動が発生。責任を取って党議長を辞任したが、その時の演説では「軍は国民に銃口を向ける」と民主化勢力を牽制した。辞任後も隠然たる影響力を持ち、晩年はそれまでの外交における中立姿勢にもかかわらずアメリカを批判していた。
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