バルーフ・スピノザ
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バルーフ・スピノザ(バルーフ・デ・エスピノザ)は、ポルトガルのアヌシームでアムステルダムへ逃亡後にユダヤ教に改宗した両親の間に生まれた。彼は神の存在そのものを公式に否定した最初のユダヤ人であったとされている。幼少期より『エッツ・ハイーム』からユダヤ思想を学び、長じてアムステルダムの賢者の弟子となった。この頃にはすでにヘブライ語を習得しており、タナハを原文で読むことができた。また、アブラハム・イブン・エズラのタナハ注釈や中世ユダヤ哲学の思想から多くの影響を受けていた。成人に達するとギリシア哲学をはじめとした一般的な学問にも手を伸ばしたのだが、当時はラムバムやハスダイ・クレスカスの著書に基づいたユダヤ思想に立脚したうえでギリシア哲学を理解していた。しかし父親の死後、22歳になったスピノザはキリスト教徒のグループに加わるようになり、ハラハーの実践を止めて安息日の規定も公然と無視するようになった。さらにはユダヤ教という制度そのものに対する反意を表明するのもためらわなかったため、ラビによる法廷に召喚され、そこで更生を促すべく30日間のニドゥィが言い渡された。それでもスピノザは更生に応じなかったため、アムステルダムのユダヤ人社会総意のもと1656年にヘーレムの宣告を受けた。このときまだ24歳の若さであった。以下はその宣告文である(ヘブライ語の抄訳からの重訳)。 ―5416年(ユダヤ暦)―権威あるパルナス(ユダヤ人共同体の指導者)の賢者らが、あなた方にとって吉報となるべき重要な宣告文を出す。バルーフ・デ・エスピノザの悪しき思想と言動が伝えられるようになってからというもの、賢者らは期待を込めつつ様々な手段を講じて彼の者を悪しき道から立ち直らせようと試みてきた。しかし、賢者らの手に負えるものではなく、それどころか、恐るべき背信行為たるその言動や教育についての数々の報告が毎日のように届けられており、いまや賢者らの手には、賢者らが直に見聞きした信頼すべきあまたの証言がある。よって、彼の者の思想、言動に対して決然たる態度で臨むに至る。すなわち、件のエスピノザを破門に処し、イスラエルの会衆から追放する。見よ、賢者らは下記のごとくエスピノザに対してヘーレムを科す。誉れ高き神と聖なる会衆の合意のもと、御使いの決意と祈りの言葉をもって、我々はバルーフ・デ・エスピノザに対してヘーレム、ニドゥィ、これに加えてシャムターの判決を下す。彼の者は、昼に呪われ、夜に呪われ、臥所で呪われ、起きても呪われ、出ても呪われ、帰っても呪われよ。主は彼の者の購いを望まず、これを憎まれる。あなた方は今日、主なる神、生きている神と一体となり、満場一致でこのように言う。「我々は警告する。口頭であれ文章であれ、何人たりとも彼の者と接触してはならない。彼の者にとって有益なことを一切行ってはならない。彼の者と同じ屋根の下に留まってもならない。直接はもちろん、文書による間接的な結びつきを依頼することさえも許さない。」
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