ハーバート・オースチン時代とは? わかりやすく解説

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ハーバート・オースチン時代(1905年-1941年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:36 UTC 版)

オースチン・モーター・カンパニー」の記事における「ハーバート・オースチン時代(1905年-1941年)」の解説

のちハーバート卿と呼ばれるハーバート・オースチン(1866–1941)はウーズレー・ツール&モーター・カー・カンパニーの工場長で、ウーズレー社で1896年には自動車製作していた。1905年オースチン・モーター・カンパニー(The Austin Motor Company)をロングブリッジに設立し、のちウスターシャーに移る(ロングブリッジは1911年バーミンガムとなっている)。最初の車は保守的な排気量5リッター直列4気筒チェーン駆動モデルで、5年間で約200台を生産した第一次世界大戦中英国政府調達を受け、大砲から飛行機まであらゆるものを製造し、2,500人だった従業員2万2,000人へと増えた。これによりオースチン大変な成長遂げた戦後ハーバート・オースチンは3.620 cc出力20 hpエンジン中心としたワンモデル・ポリシーを掲げる。一つエンジン乗用車商用車、そしてトラクターまでをも製作しようとしたものの、膨れ上がった工場規模満たすだけの需要起きず1921年管財人の手委ねられる。しかし、そこで金銭面を整理したのち会社は再び開花することになる。1922年、1,661 ccオースチン12トゥエルブ)、続いてオースチン・ 7セブン)が小型車市場投入された。 特に7は、小型簡素、そして価格抑えるなど、かなり早い時代大衆車市場狙ったモデルと言える。しかも、ドイツBMW最初自動車として発売したデキシー(Dixi)をはじめ、米国バンタムBantam)、フランスのローザンギャール(Rosengart)でもライセンス生産が行なわれるなど、大きな成功収めた日本ダット自動車製作したダットソンは、ライセンス受けていなかったが、「7」車両デザイン使用し、非常に似た車両となっている。日産自動車社史では触れられていないが、オースチン社史では日産との関係があることが触れられている。 1929年から1934年までは米国子会社がアメリカン・オースチン・カー・カンパニー(American Austin Car Company)として活動した。この会社1937年から1941年にはアメリカン・バンタム(American Bantam)として再興している。 オースチンは7により、最悪恐慌時を切り抜け1930年まで利益確保し続けた数多くシリーズ生産し順次オールスチールボディ、ガーリング製ブレーキシンクロメッシュ付きトランスミッション切り替えられていったエンジンだけはサイドバルブのままだった。1938年には、宿敵モーリスからレナード・ロード(レナード卿:1896–1967)を役員迎え入れる1941年ハーバート・オースチン亡くなるとロード会長職に付く。

※この「ハーバート・オースチン時代(1905年-1941年)」の解説は、「オースチン・モーター・カンパニー」の解説の一部です。
「ハーバート・オースチン時代(1905年-1941年)」を含む「オースチン・モーター・カンパニー」の記事については、「オースチン・モーター・カンパニー」の概要を参照ください。

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