ノルゲ号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:04 UTC 版)
詳細は「ノルゲ (飛行船)」を参照 1925年の秋、ノルウェーの探検家ロアール・アムンセンはノビレに共同で北極飛行を – 当時、いまだにどの飛行家も達成していない目標 – 飛行船による北極圏到達に取り組もうと働きかける。アムンセンはすでに当年の春、アメリカ人富豪探検家リンカーン・エルズワースを伴い ヒャルマー・リーセル=ラルセン(英語)飛行士の操縦でイタリア製の飛行船ドルニエ Do J に乗り組み、北極点まで150海里 (280 km) の距離まで到達しており、北緯88度近辺で不時着を余儀なくされ30日間、氷原に足止めされたばかりだった。 ノビレの N-1型機の製造元であるイタリア国営航空機工場 (Italian State Airship Factory) から1926年3月29日、探検用に実機の提供を受ける。アムンセンは操縦はノビレに任せるべきだ、乗組員5名は全員、イタリア人をそろえるようにと主張する。この飛行船にはアムンセンが「ノルゲ」号 (ノルウェーの意味) と命名、4月14日にイタリアを飛び立ちイングランドのパルハム(英語)とオスロに寄港、ロシアのレニングラードを目指す。スヴァールバル諸島スピッツベルゲン島の ニーオーレスン (ノルウェー領キングスベイ) からいよいよ北極点へ向けて飛び立つ直前、ノルウェー北部の飛行船基地ヴァドソーを訪れている。 4月29日、やはり北極点を狙うアメリカのリチャード・バード隊が旅客機フォッカー F.VIIで基地に現れ、アムンセンは落胆する。5月9日、バード隊がフロイド・ベネット(英語)の操縦で、わずか16時間足らずで北極圏上空を通過して戻ったと宣言すると、アムンセンは最初に祝福したひとりだった。それでも「ノルゲ」号の乗組員は飛行計画を実行に移す。バードの副操縦士を務めたベネットは後日、実は北極点通過は偽りであったと認めたと言われている。 翌々日の1926年5月11日、「ノルゲ」号探検隊はスヴァールバルを離陸した15時間半後、極点上空を通過。2日後にアメリカのアラスカ州テラー(英語)に到着する。強風のため、予定していた目的地ノーム着陸を諦めたのであった。その当時を振り返ると、「ノルゲ」号こそ北極点到達第1号になるという目標を実現していたのである。あれから数十年にわたり、バードが5月9日に達成したという記録は人類史上の偉業として称えられてきたものの、その後、何度か信ぴょう性を問われ、ついにバード自身の飛行記録が発見されると、新記録として公表しながら裏付ける飛行記録に偽りがあったことが判明している。 「ノルゲ」号の「ローマ発ノーム行き飛行計画」はそれ自体が航空史上、素晴らしい記録でありながら、当時の状況ではみすみす賞賛を逃がした形になり、設計士で操縦桿を握ったノビレと探検隊長でオブザーバーであり客席に座ったアムンセンの間に、やがて不協和音が生じる。ムッソリーニが政権を握ると、その意見の不一致が悪化してしまう。イタリア政府はイタリアの技術力を喧伝するためノビレにアメリカ各地をめぐる講演旅行を命じ、アムンセンとノルウェー人探検隊員はさらに疎外された。
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