ノイエンガンメでの集結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/11 05:07 UTC 版)
3月30日と4月2日の輸送は、ライプツィヒ周辺地域のトルガウ(Torgau)、ミュールベルク(Mühlberg)、オーシャッツ(Oschatz)の収容所からデンマーク人警察官とノルウェー人の合計1,200名の収容であった。デンマーク人警察官は4月3日から5日に2つのデンマークの輸送隊により故国へ連れ帰られた。この内の約1,000名が4月23日にスウェーデンへ送られた。 3月29日にスウェーデン赤十字社の要員はノイエンガンメへの立ち入りを許され、医薬品、毛布、個人用衛生用品、食料を差し入れた。スカンジナビア人ブロックが設けられ、そこの環境は他の国の収容者がスカンジナビア人収容者の特権的立場に冷ややかな態度を取るほど改善していた。 3月28日にフォルケ・ベルナドッテはストックホルムからベルリンにヒムラーとの再交渉にやって来た。ベルナドッテは、ノイエンガンメからスウェーデンへのスカンジナビア人収容者の移送、収容所全体への立ち入り、そして可能ならばユダヤ人収容者もスウェーデンへの移送の許可を引き出すために交渉を押し進めることになっていた。3月30日にフォルケ・ベルナドッテは、初めてノイエンガンメとデンマーク人収容者を訪問する機会を得た。J. B. ホルムガールド(J. B. Holmgård)は以下のように記している。 "ナチの屠殺屋パウリ(Pauly)とトゥーマン(Thuman)が鞭を振り回す傲慢な優等人種の代表者といった素振りを見せなかったのはノイエンガンメの歴史で初めてのことであった。2人はベルナドッテの後から足音を忍ばせて歩き、残された日々が数えられるほど少なくなった優等人種の屠殺屋に特有の典型的な卑屈な甘言にも似た親切さと従順さを唐突に見せた。" 4月の初めにドイツ国内のスカンジナビア人収容者のほとんどはノイエンガンメに集められた。任務は長引きビョルク大佐はスウェーデンへ戻り、遠征隊の新しい指揮官にスヴェン・フリクマン少佐が就任した。帰国した要員もいたが、2倍の日当が約束された後は遠征隊の半分に当たる約130名が残った。 4月2日に新しいスウェーデンの輸送隊がマントハウゼンとダッハウから残りの収容者を収容するためにドイツ南部へ向けて出発した。ノルウェー人医師のビョルン・ヘーゲル(Bjørn Heger)が同乗したバスは、「グロス・クロイツ」グループがシェームベルク(Schömberg)周辺地域にいると推測する30名の収容者の探索に割り当てられた。状況は厳しく、スウェーデン人のモリン(Molin)はこう記している。 "・・・シェームベルクへの途上、上空での活動が大変活発で連合国軍機が何度も頭上を通過して行ったが、攻撃されることはなかった。アウトバーン沿いには数多くの破損した車や酷い怪我を負った人々がいた。所々に混沌が支配しているような場所があり、我々は赤十字の標識の付いた白バスでそこをおめおめ素通りすることができず停止して応急手当を施さざるを得なかった。被害が甚大な場合もあった。" 30名の収容者のうち16名が生存してファイインゲン(Vaihingen)の収容所で発見されたが、残りは死亡していた。生存者(全員が酷く衰弱していた)の中にトリグヴ・ブラテッリ(Trygve Bratteli)とクリスティアン・オットセン(Kristian Ottosen)がいた。この輸送隊は、ファイインゲンで16名、マウトハウゼンで「夜と霧」の女性収容者16名、ダッハウで重症の収容者43名の合計75名を収容した。
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