ネット局独自のウルトラクイズ
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「アメリカ横断ウルトラクイズ」の記事における「ネット局独自のウルトラクイズ」の解説
日本テレビ系列のNNN、NNS各局では本番組の亜流ともいうべき大人数参加のクイズ大会が制作、放送されていた。ウルトラクイズを名乗り、各系列局のアナウンサーやタレントではなく福留や福澤が司会を担当するなど(例として、福井放送『福留功男のウルトラクイズ福井版』、テレビ岩手『福留功男のウルトラクイズ岩手版』など)、ルールやセット、BGMなどに関しても本家を踏襲したものとなっていた。 1994年(平成6年)から2001年(平成13年)までに福島県岩瀬郡天栄村で行われた「ウルトラクイズinてんえい」は本格的なイベントとして反響を呼んだ。当初は村制施行40周年記念として開催され、その後も村おこしとして続いたが、日本テレビと福島中央テレビの協力を仰ぎ、司会こそ地元アナだが、ウルトラクイズ名物の泥んこ飛び込みクイズならぬ不正解だと粉まみれになるシロンコ飛び込みクイズや、ウルトラハットなどのセットに本物を使ったりと本家に近い形式になり、評判となった。 1983年(昭和58年)3月には、ラジオ番組としても制作されたことがある。日本テレビの系列局でもある青森放送が開局30周年記念番組として企画、同局のみで放送された。当初、青森放送から企画を打診され協力を要請された日本テレビは、番組タイトルも含めて難色を示したとされているが、最終的には実験として制作に全面的に協力、問題の提供や早押しハットなどの機材も貸し出し、福留やスタッフが青森に赴き、福留が司会を務めた。青森放送でも、当時ラジオ制作部に所属していた伊奈かっぺいこと佐藤元伸がディレクターを務め、地元にちなんだ問題の作成や台本づくりなどの放送作家的な仕事もこなした。併せて、当時アナウンサーだった大友寿郎がラジオ放送向けの実況(カゲの声)を務めている。収録は、青森市内の中央3丁目にあった青森県営体育館(現在は取り壊され、跡地には青森県男女共同参画センターと青森県子ども家庭支援センターの2つの機能を併せ持つ複合施設「アピオあおもり」が建っている)で行われた。第一次予選は4回に分けて行われ、のべ3,650名が参加した。このときの優勝賞品は、アメリカ西海岸旅行であった。 多摩地域が東京都に編入されて100周年を記念して1993年(平成5年)に行われたイベント「TAMAらいふ21」の一環として、同年夏に自治体とのタイアップによる、ウルトラクイズ同様の形式のクイズ番組「80大学対抗クイズ選手権」が制作された。この模様は日本テレビで深夜にローカル放送された。司会は福澤が務め(この時の福澤のかけ声は「ジャストミート」ではなく「タマ王」だった)、ウルトラクイズのスタッフも多数参加した。大学生2人1組での参加による大会であった。収録は2日間にわたり、多摩の名所を巡った。優勝チームには「タマ王」の称号が与えられた。
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