ドレスデン条約
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ナビゲーションに移動 検索に移動ドレスデン条約(1745年) | |
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署名 | 1745年12月25日 |
署名場所 | ドレスデン |
締約国 | プロイセンと、オーストリアおよびザクセン |
主な内容 | 第二次シュレージエン戦争が終結 |
関連条約 | ブレスラウ条約 |
ドレスデン条約(独: Frieden von Dresden)は、1745年12月25日に締結されたオーストリア継承戦争における講和条約である。
プロイセンと、オーストリアおよびザクセンとの間に結ばれたもので、この条約によって第二次シュレージエン戦争は終結した。
締結
ケッセルスドルフの戦いで勝利したプロイセン軍はドレスデンを占領し、18日にはフリードリヒ大王もドレスデン入りした。
かねてよりイギリスが熱心に仲介して両国間の講和を成立させようとしていたが、ザクセンが戦争継続不可能であることを知ったマリア・テレジアもついに講和受け入れを決意し、ドレスデンに派遣したフリードリヒ・アウグスト・フォン・ハラハに大王との折衝を命じた。
内容
条約の内容は具体的には以下のような内容であった。
- プロイセン、オーストリア、ザクセンの3か国は相互に戦争を終結させる。
- オーストリアは1742年のブレスラウ条約を改めて承認する。
- ザクセンはプロイセンに100万ターラーの賠償金を支払う。
- プロイセンはフランツ1世の神聖ローマ皇帝即位を承認する。
参考資料
- S.フィッシャー=ファビアン 著\尾崎賢治 訳『人はいかにして王となるか』Ⅰ、Ⅱ(日本工業新聞社、1981年)
- 林健太郎、堀米雇三 編『世界の戦史6 ルイ十四世とフリードリヒ大王』(人物往来社、1966年)
- アン・ティツィア・ライティヒ 著\江村洋 訳『女帝マリア・テレジア』(谷沢書房、1984年)
- Thomas Carlyle PEACE OF DRESDEN: FRIEDRICH DOES MARCH HOME
- de:Frieden von Dresden (09:35, 13. Mär. 2009 UTC)
ドレスデン条約
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「第二次シュレージエン戦争」の記事における「ドレスデン条約」の解説
ケッセルスドルフの戦いはタイミングに着目すれば実に際どいものであった。戦いのあった15日にはすでにカール公子軍の先鋒がドレスデン郊外に到着しつつあり、ルトフスキーが会戦に及ぶ前にカール公子に強行軍を要請するか、あるいはルトフスキーがドレスデンの南に陣を下げていれば、また違った結果になったかもしれないとされる。もっとも同様に大王軍も15日にはマイセンでエルベ川を渡河しているわけで、この場合、ドレスデン前面でホーエンフリートベルクの戦いに匹敵する規模の大会戦が行われた可能性もあった。ルトフスキーが上記の選択肢を取らなかった理由については、ルトフスキーがケッセルスドルフの地形の利に自信を持っていたためとも、功名心のためとも言われる。カール公子の方も、状況が切迫しているにもかかわらず強行軍を行わなかった。 敗走したルトフスキー軍はドレスデンの南ですぐカール公子軍と合流することになるが、両者はともにドレスデン防衛を諦めてピルナまで後退した。選帝侯とブリュールもプラハに避難した。12月17日、ドレスデン守備隊は降伏してプロイセン軍はドレスデンに入城し、翌18日大王もドレスデンに到着した。大王は老デッサウに会うと彼の軍歴最後の勝利を讃え、会戦前のいざこざを水に流した。 一方同じドレスデンで、カール公子軍とほぼ同時に到着したオーストリア特命大使ハラッハが駐ドレスデン・フランス大使ヴォルグナンと会見し、フランスの言い分をかなり呑んだうえでの単独講和を申し入れていたが、いま目の前でザクセン軍が敗走し、プロイセン軍が勝利を祝っている状況で交渉は成功するはずもなかった。ピルナの連合軍はプロイセン軍に圧迫されてベーメンに引き下がっていたが、ザクセンはすでに軍の半数を失っており、プロイセンとの講和に応じる姿勢を示していた。かねてよりのイギリスの圧力もあって、女帝はついに講和を受け入れ、ハラッハに予定を変更してプロイセンとの交渉の席に着くよう命じた。 交渉は、ベルリンから出てきたプロイセンの外務大臣ポデヴィルス、イギリス駐ドレスデン大使トマス・ヴィラーズ、ザクセンの大臣ザウル、そしてオーストリアの大使ハラッハの四者によって行われた。 この時点の戦況に限ってみれば、プロイセンがすこぶる優勢であったが、しかしもし戦争を続行すれば、ロシアの参戦を受けねばならず、またこの時のプロイセンは戦争を継続するのに必要な資金が尽きていた。このため大王は、欲を出して戦争を長引かせるようなことをせず、戦況に照らして些少とも思える条件で満足した。12月25日、ドレスデン条約が締結され、ここに第二次シュレージエン戦争は終結した。 フランス大使のヴァロリーは当時ベルリンにいて条約交渉の蚊帳の外に置かれており、プロイセンが単独講和の方針であるのを知って慌てて抗議したが遅かった。ヴァロリーの部下ダルジェがドレスデンに派遣されてきて、大王と会見して翻意の可能性を探った。ダルジェは、ドイツの英雄となられたあなたは今度はヨーロッパに平和をもたらす役割を担う気はありませんか、という言い方で大王に自国への協力を求めたが、大王は、それはあまりに危険な役割であり、この間ベルリンから打って出たようなときのような気分にはもうなれないと言って断った。オーストリアがシュレージエンを諦めるとは思えませんが、とダルジェは食い下がったが、大王は、先のことはわからないが、わが身を守るとき以外には私はもう猫を襲わない、と答えるのみであった。 条約が締結されると大王はすぐドレスデンを去り、年が変わる前にベルリンに帰還したが、このとき市民や宮廷人は「フリードリヒ大王万歳」の声で迎えた。「大王」の尊称はホーエンフリートベルクの戦勝後に言われたのが初出とされるが、その後いくつもの戦闘で勝利を収め、戦争を終結させたこの時以来一般に知られるようになった。
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