トヨタ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
詳細は「トヨタ戦争」および「:en:Toyota War」を参照 戦争の最後の年となった1987年の年頭、チャド駐留リビア軍は兵士8000人、戦車300両を維持し、いまだ威容を誇っていた。しかしながら、偵察任務や突撃歩兵といった従来より味方チャド勢力から提供されていた重要な支援を失っていた。その支援がないと、駐留リビア軍はチャドの砂漠に孤立する無防備な島の様であった。一方、チャド国軍(FANT)は大幅に強化され、士気の高い兵士10000人を擁し、ミラン対戦車ミサイルを装備し高速移動できる砂漠仕様のトヨタ製ピックアップトラックが配備されていた。この紛争の最終局面は、このトラックから「トヨタ戦争」と名付けられた。 1987年1月2日、ハブレは、防御の堅いリビア側のファダ通信基地への攻撃(ファダの戦い(英語版))を成功させ、チャド北部の支配権奪還に向けた活動を開始した。チャドの司令官ハサン・ジャモス(英語版)は、陣地を素早く挟み込み、包囲し、四方から急襲、撃破するといったリビア軍に対する一連の攻撃を指揮した。ジャモスはこの手法を3月のビルコラの戦い(英語版)、ワジ・ドーム(Ouadi Doum)の戦いでも繰り返し使用、リビア軍は壊滅的な損害を受け、チャド北部からの撤退を余儀なくされた。 次にリビアが支配するアオゾウ地帯が危うくなり、8月にはアオゾウ地帯はチャド国軍(FANT)の手に落ちたが、リビアの反撃は圧倒的で、またフランス軍が航空支援を拒否したこともあり、チャド国軍(FANT)は撃退されるに至った。ハブレはこの敗北に対し、チャド・リビア紛争初となるリビア領内への攻撃を行うことで即応、9月5日にはマアタン・アッ・サッラにあるリビアの主要空軍基地(英語版)を急襲し完全な勝利を収めた(マアタン・アッ・サッラの戦い(英語版))。この攻撃は、アオゾウ地帯への新たな攻撃の前に、リビアの航空戦力の脅威を取り除いておくといった計画の一環であった。 マアタン・アッ・サッラの戦いにおいて、チャド側としてフランスが介入し、アメリカがチャド国軍(FANT)に衛星情報などからなる地理空間情報インテリジェンス(英語版)(GEOINT)を提供したことから、カダフィは、リビアの敗北はフランスとアメリカによる「いわれのないリビア侵略」である、と非難した。 マアタン・アッ・サッラの戦いの大勝利を受けて、フランスはこの戦いがリビア本土への総攻撃の第一歩となることを恐れており、また本土総攻撃をフランスは許容しないと見込まれていたことから、予期されていたアオゾウ地帯への攻撃は行われなかった。一方、カダフィは国内外からの圧力にさらされ、軟化の兆しを見せており、9月11日のアフリカ統一機構(OAU)仲介による停戦につながった。
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