デラウェアでの政治
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「ジョン・ディキンソン (政治家)」の記事における「デラウェアでの政治」の解説
ディキンソンは2年以上にわたる年月をデラウェアの「ポプラ・ホール」で過ごした。デラウェア邦議会は、1777年にディキンソンをデラウェア邦代表として大陸会議に派遣することを決めた。しかしながらディキンソンはこの要請を拒否した。同年8月、ディキンソンはケント郡の市民軍に参加し、デラウェア邦ミドルタウンにおいてシーザー・ロドニーの下についた。ディキンソンはイギリスのウィリアム・ハウのフィラデルフィア進軍に対抗し、間もなくディキンソンの友人のトマス・マッキーンがディキンソンをデラウェア市民軍の准将として任命した。だがディキンソンはこの任命を辞退した。この直後、ディキンソンはジャーマンタウンの戦いによりフェアヒルが全焼したことを知らされた。 1777年、ディキンソンはデラウェア最大の農場を所持しており、最大の奴隷所有者でもあったが、デラウェアに所有する奴隷をすべて解放することを決めた。これによりケント郡には大規模な奴隷農園がなくなり、わずか37人の奴隷を所有するだけになった。この行動は相当な勇気が必要であり、奴隷廃止論者のクエーカーにとって大きな追い風となった。またディキンソンの農場では小麦や大麦など、タバコよりも生産労力を必要としないものが多く作られていたため、大きな困難は伴わなかった。 その後、1779年1月18日にディキンソンはデラウェア邦から大陸会議の代表として指名を受けた。ディキンソンは大陸会議に参加し、連合規約への署名を行った。この連合規約には、1776年にペンシルベニア代表として大陸会議に参加していたときに、最初の草案の起草に関与していた。1781年8月、デラウェアの「ポプラ・ホール」が王党派の略奪に遭い、大規模な損傷を受けた。ディキンソンは損害を調査するためにデラウェアへと戻り、そこに数ヶ月間留まった。 1781年10月、ディキンソンはデラウェア邦上院に、ケント郡の代表として選任された。そしてその直後、デラウェア邦議会はディキンソンをデラウェア邦知事として選出した。議会の投票はほとんど合意によるものであり、唯一の反対票はディキンソン自身によって投じられたものであった。ディキンソンは11月13日にデラウェア邦知事に就任し、1782年11月7日までその任を務めた。ディキンソンは邦知事として、連合会議に関する財政問題の健全化を働きかけた。また国勢調査の導入や、州市民軍の再編も図った。 1782年11月7日、ディキンソンは選挙によりペンシルベニア邦知事として選出されたと発表した。しかしながらデラウェア邦知事の実質的な辞任はせず、これに対しフィラデルフィア新聞が非難した。ディキンソンの合法的な後任であるジョン・クック(英語版)は新たな選挙を要求した。そして後任が決まると、ディキンソンは正式に邦知事を辞任した。
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デラウェアでの政治
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「トマス・マッキーン」の記事における「デラウェアでの政治」の解説
マッキーンはイギリス政府からの分離・独立を宣言するため、デラウェア植民地議会で奔走した。そしてデラウェア植民地は1776年6月15日にイギリスからの独立を決議し、マッキーンは同年8月に新たな州憲法を制定するための特別協議会の代表に選出された。マッキーンはペンシルベニアのフィラデルフィアからデラウェアのドーバーまでの長い道のりを1日で移動し、宿屋において1人で草案を書き上げた。この草案は1776年9月2日にデラウェア邦議会で採択され、この憲法は独立宣言後に起草された最初の邦憲法となった。 その後、マッキーンはデラウェア邦下院議会の最初の代議員として選出され、1776年と1778年の議会に参加した。1777年2月12日に議長のジョン・マッキンリーがデラウェア邦知事となり、マッキーンはその後任として議長に就任した。だが間もなくマッキンリー邦知事が逮捕・拘束されたため、議長のマッキーンが1777年9月22日から10月20日までの約1ヶ月間、知事代行として職務を執り行った。マッキーンは知事代行として正式な後任の知事の決定にあたり、フィラデルフィアでの連合会議に出席していたジョージ・リードを指名し、呼び戻した。 この時期、デラウェアは大規模な混乱に覆われていた。イギリス陸軍はフィラデルフィア、ウィルミントン、そしてニューキャッスル郡の北部を占領し、またイギリス海軍はデラウェア川からデラウェア湾までを支配下に置いていた。そのため、議会が開かれていたニューキャッスルは危険な状態となり、サセックス郡の中心都市ルイスは王党派によって分裂した。知事代行のマッキーンは民兵の追加募集を行い、事態の沈静化にあたった。
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