チャーチワードによるムー大陸と顛末とは? わかりやすく解説

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チャーチワードによるムー大陸と顛末

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 17:52 UTC 版)

ムー大陸」の記事における「チャーチワードによるムー大陸と顛末」の解説

英国陸軍大佐詐称英国陸軍在籍記録がない)していたアメリカ合衆国作家ジェームズ・チャーチワードによる説。彼は『失われたムー大陸』(「The Lost Continent of Mu Motherland of Man1926年、「The Lost Continent of Mu1931年)等の一連の著作で、ムー大陸環境文化についても詳述している。一連の著書によれば、かつて太平洋中央部には、東西7,000キロメートル南北5,000キロメートルにも渡る巨大なムー大陸があったと主張大陸住んでいた人口はおよそ6,000万人強、首都ヒラニプラにある王宮には太陽神化身である帝王ラ・ムー君臨し政治や行政、宗教に至るまでのすべてを統治し全文明を支配できるほどの高度な学問文化建築航海の術を持っており、白人支配者である超古代文明繁栄していた。しかしそれが神の怒りを買い、約1万2,000年前巨大地震発生して大陸中の火山噴火し、さらに大津波押し寄せてムー大陸一夜にして海底沈没した、と主張したチャーチワードによれば1868年16歳)にインド従軍し現地ヒンドゥー教寺院高僧が、寺院門外不出粘土板「ナーカル碑文」(Naacal tablets) を見せてくれたという。それには、ムー大陸チャーチワードによると発音MOO)の記録絵文字彫られていた。また、ウィリアム・ニーヴン (William Niven)なる米国技師メキシコ発見したという古代石板からも、「ナーカル碑文」と同じ絵文字記されていたという。それらを含めて種々の古代文献挙げてムー大陸実在した証拠としている。さらに、チャーチワード旧約聖書『創世記』物語ムー大陸滅亡記録であると主張している。 しかしチャーチワードは、それら古代文献翻訳した引用文しか発表せず、原典自体示していない。その古代文献中には、現在解読されていないイースター島碑文ラパヌイ文字またはロンゴロンゴ文字呼ばれるもの)が含まれている。 やがて、チャーチワード身分詐称発覚すると、ムー大陸記述があるとされた一次資料自体にも疑義持たれるようになり、その信ぴょう性低下する20世紀後半になって太平洋海洋底探査広く行われると、ムー大陸存在真っ向から否定するデータ次々と出てきた。

※この「チャーチワードによるムー大陸と顛末」の解説は、「ムー大陸」の解説の一部です。
「チャーチワードによるムー大陸と顛末」を含む「ムー大陸」の記事については、「ムー大陸」の概要を参照ください。

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