タンカー・ガーランド
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「M1ガーランド」の記事における「タンカー・ガーランド」の解説
M1ガーランドの短小銃モデルとして試作されたM1E5およびT26は、戦車兵用を意味するタンカー(Tanker)の通称で知られる。ただし、実際には小型火器を求める空挺隊員や、ジャングルの特殊な環境の中で戦う兵士の要望にもとづいて設計されたと言われている。 1943年頃から各戦線にてM1ガーランドのカービンモデルを求める声が上がり始め、1944年1月には第93歩兵師団にて試作された短小銃の性能試験が行われ、その結果を受けてスプリングフィールド造兵廠にて短小銃の開発が始まった。数ヶ月後に設計されたM1E5は24インチから18インチまで短縮した短銃身、開発者ガーランドが提案した金属製の折畳式銃床を備えていた。その後の性能試験を受けて折畳式のピストルグリップも追加された。短銃身化による射撃精度への直接の影響は少なかったものの、大きな銃声や発砲炎、反動が問題視され、新たなマズルブレーキを設計する必要があるとされたほか、銃床も強度や構えやすさに問題があるとされた。結局、並行して開発されていたT20ライフルに人員を集中させるため、M1E5の計画は放棄された。M1E5は1丁のみがテスト用に製造された。 同年秋、太平洋戦線委員会(Pacific Warfare Board, PWB)の指令により、少数のM1ガーランドが短小銃に改造された。この際の改造は各部隊にて手作業で行われた。太平洋戦線ではジャングルが戦場となることも多く、M1カービンよりも強力で「ブラッシュ・カッティング」(brush cutting, 生い茂った草木を安定して貫通する能力)に優れた短小銃が求められていたのである。これらは第6軍指揮下の部隊や第503落下傘歩兵連隊(英語版)に配備され、戦線各地にて実戦試験が行われた。その後、PWBは試験結果と共に改造短小銃をサンプルとして本国に送り、本格的な短小銃の設計を行うよう求めた。これを受けたスプリングフィールド造兵廠が開発したT26は、固定銃床を備えるほかはM1E5とほとんど同一の設計だった。問題点も変わらず、銃声、発砲炎、反動がM1ガーランドに比べて非常に大きかった。2丁のT26が1945年7月に試作され、その後15,000丁が製造される予定だったが、8月には日本が降伏して太平洋戦争が終結したため、計画そのものが放棄された。PWBはM1ガーランド150丁の改造を命じていたものの、本国からの評価と連絡を待つ必要があったため、計画放棄までに完了はしていなかったと見られ、現存品は少ない。 結局、M1E5およびT26は極めて少数しか製造されなかったが、M1ガーランドのカービンモデルというアイデアは、後に民生用銃器市場で蘇ることになる。1960年代初頭、一部の民間事業者が放出された軍用銃の余剰部品(溶断された部品を含む)の取り扱いに着手した。その中の1人、ロバート・E・ペニー・ジュニア(Robert E. Penney, Jr.)は、入手した余剰部品に加え、復元した溶断部品を用い、民間市場向けにM1ガーランドを中心とするライフルの販売を開始した。そしてかつて試作された短小銃の存在を知っていたペニーは、新製品としてこれを模したライフルを作り、戦車兵用短小銃という印象を与えるタンカー・ガーランド(Tanker Garand)なるニックネームを与えたのである。当時、民間人にとって本物のM1ガーランドの入手は極めて困難だったので、タンカーを含む復元銃の売れ行きは好調だった。部品の新造には膨大な費用がかかるため、余剰部品のの枯渇と共にペニーは復元銃の販売を中止して会社を売却した。しかし、他の企業等でも類似製品の製造が行われており、短小銃化されたM1ガーランドを指すタンカーという誤ったニックネームが広まっていった。
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