ゼノ修道士との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 14:44 UTC 版)
1950年に北原怜子が21歳の時、姉の嫁ぎ先である浅草の履物屋に、一家で身を寄せていた時、彼女のもとに全身黒ずくめの修道士が現れた。それがゼノ修道士であった。 北原が暮らすその履物屋の店先で、ゼノ修道士は店員たちを前に、雑誌の『聖母の騎士』や『コルベ神父伝』のパンフを並べてユーモアたっぷりに説明していた。北原は「サンタクロースそっくりのおじいさんが来ている」と、店員に店に出てみるようにと誘われて、何となしに降りてみた。北原を見たゼノ修道士は、彼女がロザリオを持ち合わせているのに気付き、キリスト教の洗礼を受けているかと聞いてきた。これが、北原とゼノ修道士との初対面である。北原はメルセス修道院で受洗したことを告げると、ゼノ修道士は、修道女になるつもりなのかとさらに聞いてきた。北原はこの時、修道女になることを考えていたことを自書に書いている。ただし、酒井友身著の伝記によると、この時点で北原はすでに最初の肺結核を発病した後であり、修道女になることについては体力的に無理があったとされる。 店にとびこんできたゼノ修道士を店員たちが相手をしたのは、彼を北原の訪問客と勘違いしたためであり、この時、北原もゼノ修道士を見て、「黒い修道服を着た神父」としか認識せず、何者かを知っていなかった。この時、ゼノ修道士が何をしに来たのか、その目的は「かわいそうな人間のために、お祈り頼みます」ということだけであった。 ゼノ修道士は、このようにして、聖母マリアの御絵カードを手渡して、貧しい人々に祈ること、それによって自身にも恵みがあることを伝えて去って行った。これが当時にマスコミ等で報道されていたゼノ修道士であることと、北原は、新聞の写真で自分のもとを訪れた彼を見つけて初めて知る。 ゼノ修道士が訪問したその晩に店の店員が、ゼノ修道士の記事が載ったその日の新聞の夕刊を北原に見せ、彼女は彼が何者かを知った。その記事は、「アリの街に十字架 ゼノ神父も一役」と書かれていた。 そこには、墨田公園の中にある「蟻の町」と呼ばれるバタヤ集落の中に、カトリックの教会が建設予定となり、ゼノ修道士が材木集めをしていること、彼が、上野の墓地集落・浅草本願寺の浮浪者集落をたびたび援助したことなどが書かれていた。そしてその記事には蟻の町の子どもたちに取り囲まれた笑顔のゼノ修道士の姿が掲載されていた。 報道でゼノ修道士の活動を知り、平凡な毎日を過ごしていた北原は「何かせねば」との思いを巡らしていた折であり、神からの巡り合わせではないかと考えるようになった。その後、ゼノ修道士は、北原の住む浅草の履物屋に再び立ち寄り、勉強中であった北原の替りに店の番頭がゼノ修道士を当時の「蟻の町」まで道案内をした。その話を数時間後に聞いた北原は、自分も夕暮れの街に飛び出していった。 北原は蟻の街の会長宅を、紹介者なしの飛び込み訪問した。ここで彼女はその場に居合わせたゼノ修道士と再会する。あいさつの言葉も、取るべき態度もはっきりせず、来訪の目的すら明確でなかったので、口ごもる北原に、ゼノ修道士は声をかけ、その場の人々に北原を紹介した。そして、ゼノ修道士は、北原を自宅まで送って行くと皆に告げ、彼女を連れ出した。それはゼノ修道士が北原に、帰りの道すがら、土砂降りの雨の中を蟻の街の横からバタヤの人々などが暮らす集落を見せるためであった。その時の印象を北原は、日本の首都の真中と信じることができなかったと自書に書いている。 自宅に戻った北原は送ってきたゼノ修道士をそのまま自宅に招いた。ゼノ修道士はいつも持ち歩く貧困者に関する新聞報道、写真、手紙等の資料を北原に見せ、貧困者たちの惨状を熱く語った。そして暇があったらこのような貧困者たちを慰問して欲しいと言い残して帰宅した。
※この「ゼノ修道士との出会い」の解説は、「北原怜子」の解説の一部です。
「ゼノ修道士との出会い」を含む「北原怜子」の記事については、「北原怜子」の概要を参照ください。
- ゼノ修道士との出会いのページへのリンク