セントクレアの遠征
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「チャールズ・スコット (州知事)」の記事における「セントクレアの遠征」の解説
スコットのウォバッシュ方面作戦は、ケンタッキーにおいても、ワシントン政権からも好意的に受け止められた。1791年6月24日、アーサー・セントクレアは戦争委員会に、第2の遠征隊を編成してウォバッシュ川地域に入り、オハイオ川沿いにある前進基地を除去して駐屯兵と資金を自由にすることを奨励した。それはセントクレアの大がかりな侵略の前哨戦だった。スコットは前進基地を除去することには疑問を持ち、戦争委員会の委員には、ビッグボーンリックの基地と、ケンタッキー川河口の鉄工所を守る基地を残しておくよう説得した。スコットの直感が正しかったことが後に証明された。1か月後、インディアンの襲撃隊がビッグボーンリックを占領することで、フロンティアの開拓者が塩を手に入れられなくしようとしたが、そこの基地に駐屯する民兵に追い返された。また、セントクレアが第二次ウォバッシュ遠征に要請してきた500名という数字では、効果的な作戦を行うには不十分だと考えた。 7月、スコットはバーボン郡住人ジョン・エドワーズに、オハイオ川のケンタッキー側で馬を盗んでいることが疑われるインディアン部隊に対して、300名を率いて向かうことに許可を与えた。エドワーズの遠征隊はサンダスキー川近くまで到達したが、人が居なくなった集落を発見しただけだった。その志願兵部隊は知らなかったが、その地域でインディアンに待ち伏せされる可能性を辛うじてかわしていた。エドワーズに同行した兵士の多くが、その臆病さを非難していた。スコットは病気のためにセントクレアが要請した遠征を率いることができなかった。その代わりに友人のジェイムズ・ウィルキンソンが率いた。ウィルキンソン隊は8月1日に出発した。その遠征中、キキア(ケナポコモコとも呼ばれた)の人が居ない集落を破壊し、キカプー族の小さな集落であるウィアトノンなど地域の小さな集落を再建した。以前にスコットの遠征隊が通ったのと同じ道を辿って帰還し、8月21日までにケンタッキー側に戻った。スコットとウィルキンソンの作戦は北西インディアンに大きな重荷を負わせた。特にウィー族とキカプー族は翌年にアメリカ合衆国との和平条約に調印し、さらに西のイリノイやミズーリに移っていくことになった。 セントクレアはその病気のために戦闘に不適であると自ら認めていたが、北西部侵略のための準備を進めた。ハーマーと同様にケンタッキーでは不人気であり、スコットはセントクレアの遠征に必要とされる民兵隊を立ち上げるために徴兵を行う必要があった。スコットとケンタッキーの他の士官は、病気のために隊を率いられないと主張しており、実際にはセントクレアに関係することでケンタッキー人の尊敬を失うことを怖れていた。ケンタッキー人を進んで率いて以降という高級士官はウィリアム・オールダム大佐のみだった。 セントクレアの部隊は10月1日にワシントン砦を出発した。11月3日、ウォバッシュ川の小さな支流沿いで宿営するよう部隊に命じた。このときその支流はセントメアリーズ川だと勘違いしていた。セントクレアの意図では、翌朝部隊に防御工作を行わせるつもりだったが、夜明け前にマイアミ族とカナダ人の合同部隊が急襲し、セントクレア隊を潰走させ、大砲の一部と物資の大半を捕獲した。この攻撃でセントクレア隊1,400名のうち、600名が殺され、300名が捕虜になった。この攻撃中にケンタッキー人民兵は散り散りになり、その指揮官であるオールダム大佐が殺された。それでも民兵とケンタッキーの市民は、この大惨事に対してセントクレアを非難した。セントクレアはワシントン砦まで撤退した。11月24日、スコットは、インディアンが彼を追跡し、ケンタッキーに侵入すると決断する場合に備えて、200名の騎馬志願兵を率いてワシントン砦で合流した。インディアンによる侵略が起こりそうにないことが分かると、スコット隊は故郷に戻った。セントクレア遠征の結果として、以前は中立だったデラウェア族やワイアンドット族などの部族が、マイアミ族やショーニー族と同盟して、開拓者達に対抗するようになった。
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