セントクリストファー総督 (1660年–66年)
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「シャルル・ド・サル」の記事における「セントクリストファー総督 (1660年–66年)」の解説
1660年にポワンシーが死去すると、聖ヨハネ騎士団はシャルル・ド・サルを新総督に任じた。彼は4月11日に中将とセントクリストファー総督を拝命した。しかしこの頃、騎士団が未だ12万エキュの4島購入費を支払い終えられていない中、フランスの財務総監ジャン=バティスト・コルベールが4島を返還するよう騎士団に圧力をかけていた。1665年、騎士団はフランスに4島を返還し、その管理権はフランス西インド会社に渡った。1665年2月、ド・サルは改めてフランス西インド会社からセントクリストファー総督に任命された。 この年の3月、第二次英蘭戦争が勃発した。それに伴い翌1666年1月、フランスとイギリスの間で開戦に向かう空気が漂うなか、ド・サルはイギリス領セントクリストファー島の総督ウィリアム・ワッツと協定を結んだ。これは、どちらか一方が英仏開戦の情報を受け取った時、即座に奇襲をかけることなく相手にもその情報を知らせ、3日の後に島内で戦端を開く、というものだった。この協定を確かなものとするために、ド・サルはイギリス植民地でもさらに上位の総督フランシス・ウィロビーがいるバルバドスへ使者を送ったが、ウィロビーは返答を渋った。そして1666年1月、フランスはイギリスに宣戦布告した。
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