スモレンスク包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)
「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「スモレンスク包囲戦」の解説
詳細は「スモレンスクの戦い (1609年-1611年)」を参照 ヘトマンのスタニスワフ・ジュウキェフスキ (Stanisław Żółkiewski) に指揮されたポーランド・リトアニア軍は国境を超えロシア領に入り、1609年9月29日にロシア西部のスモレンスクを包囲した。ジュウキェフスキはもともとこの戦いに反対であったものの、王の命令に逆らえずやむなく従軍していた。スモレンスクはロシアが1514年にリトアニアから奪った西の重要都市であったが、ヴォイヴォドのミハイル・シェイン (Mikhail Shein) 率いる1,000人以下の兵士しかおらず、ジュウキェフスキ率いる12,000人の軍とは戦いにならないかと思われた。 しかしスモレンスクは、前のツァーリであるボリス・ゴドゥノフが出資した大規模な城郭補強工事が1602年に完成していたばかりだった。ポーランド軍はスモレンスクが難攻不落であることをやがて知ることになる。包囲は長期に及び、砲兵が市内へ向けて砲撃し、濠の下にトンネルを掘り、土塁を築いて城郭を攻めようとした(この土塁は今も残る)。この決着は、20カ月も先にようやくつくことになる。 スモレンスクを包囲中のポーランド陣営では、異なった戦略的・政治的構想が渦巻きぶつかりあっていた。ゼブジドフスキの反乱の元参加者たちはなおもジグムント3世と対立しており、彼を廃位して偽ドミトリー2世を、あるいはモスクワのツァーリのヴァシーリー・シュイスキーをポーランド王に選出しようとすらした。最初からロシア侵略に反対していた指揮官ジュウキェフスキは、戦役の展望、手法、最終目標を巡ってジグムント3世と衝突を繰り返した。 ジュウキェフスキはポーランド貴族(シュラフタ)の伝統的な平和主義と多文化主義の思想を代表する人物で、ロシアのような強国に対し攻撃的で危険な戦争を仕掛けることをよしとしなかった。ジュウキェフスキの理想はリトアニアと連合を結んだように平和的で自発的な連合をロシアと結ぶことであった。ジュウキェフスキはロシアのボヤーレたちに対して権利や宗教的自由を提示し同盟を呼びかけ、最終的にはポーランド・リトアニア・モスクワ連合を形成することを目指した。このためにはモスクワを武力で屈服させるのではなく、外交を通じてモスクワの協力を得るべきだというのが彼の結論だった。 一方、ジグムント3世は政治的交渉や妥協を行うことをよしとせず、特に正教会に対する譲歩だけは欲しなかった。ジグムントは口の多い、ほとんど熱狂的とすら言えるほどのカトリックの擁護者で、国内でも反宗教革命(対抗改革)を支持していた。彼は全ての戦いに勝ってモスクワを武力で手にできると信じ、ロシアに自分の支配とカトリック教会の支配を確立しようとしていた。
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