スマトラの不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:02 UTC 版)
「インドネシア共和国革命政府」の記事における「スマトラの不満」の解説
PRRIのはじまりは、中央集権的な方針をとるジャカルタの中央政府に対して、スマトラ地方の軍民の指導者たちが失望を抱いたことであった。当時からインドネシアでは、ジャワ島と「外島」(つまりジャワ以外)との間に大きな開発格差が広がっており、一方で独立戦争の過程で実際には権力の分散化が進み、中央政府および軍中枢の命令が地方まで行きとどかない傾向があった。結果として国政の恩恵が(特に外島地方へ)回ってこない状態が続いた。そのため多くの人々が、地方政府による自治を要求するようになった。 この要求は1956年11月20日から25日まで開かれた、ABRI旧第9師団(“バンテン師団”)の将兵集会で表面化した。第9師団はインドネシア独立戦争時代に優秀な士官が集い、オランダの再侵攻に対して重要な役割を果たしたが、独立後に隷下の部隊がアチェやモルッカといった全国各地へ分派され、現地の部隊へ編入されたうえ、中央スマトラの原隊は連隊へ降格のうえ隣の軍管区に編入されていた。このような特別な不満もあって、11月の集会には612人の退役軍人が出席し、「バンテン憲章」という合意に至った 。 バンテン憲章を通じ、集会の参加者たちは政府と軍の統治について改善を求め、また地域ごとの防衛司令部と“バンテン師団”の再編制も要求した。さらに彼らは、「不健全」な官僚制の支配する中央集権型の政府が地域の発展を阻み、自発性を損ねていると主張した。バンテン憲章のためにバンテン委員会が作られ、第9師団の後身である第1軍管区第4歩兵連隊を率いるアフマド・フセイン(インドネシア語版)中佐が委員長となった。委員会は17人からなり、8人が現役または退役の士官で、2人が警察官、7人が民間人、ウラマー、政治活動家および公務員からなっていた。 バンテン委員会に続いて、似た性格の組織が次々と立ち上げられた。マルディン・シンボロン(インドネシア語版)大佐率いるガジャ委員会、バリアン(インドネシア語版)中佐率いるガルーダ委員会などである。これらは1957年9月までに、アフマドの闘争委員会へ統合された。
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