ジョン・フランクリン隊の全滅とは? わかりやすく解説

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ジョン・フランクリン隊の全滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 00:04 UTC 版)

北西航路」の記事における「ジョン・フランクリン隊の全滅」の解説

詳細は「ジョン・フランクリン」および「フランクリン遠征」を参照 1845年十分な装備整えた二隻の軍艦が、ジョン・フランクリン卿に率いられイギリスからカナダ北極海への探検出港した。この航海北西航路最後に残った不明箇所海図作ることが目的だった。フランクリン自身やほかの探検家たちによる調査で、カナダ北極海沿岸未踏海岸線はあと500kmを残すほどになっており、暖房食料豊富に持った探検隊成功自信満ちていた。しかし3年経って探検隊戻らず数多く救助隊捜索隊艦隊組んで彼らの行方を捜して北極向かったが、さらに多く遭難者を出す結果になった。しかしこれらの捜索隊北極諸島にある未知の島や海峡多く発見し北西航路残り海図作成している。129人の探検隊北西航路のどこに消えたのかという謎は大衆想像力刺激し、夫の遭難信じ自費捜索隊組織するフランクリン夫人イギリス中の注目集めた探検隊出発から14年後の1859年フランクリン夫人組織したマクリントック隊は、航路中間にあるキングウィリアム島探検隊ノート膨大な遺品雪原連なる遺骨発見し探検隊全滅したことや全滅する至った道のり明らかになった。メモによれば艦隊1845年から46年にかけてデヴォン島南西ビーチー島で越冬しこの際に3人の水夫結核死にビーチー島に墓が作られた。艦隊南西向かった1846年9月キングウィリアム島付近海域で氷に閉じ込められ脱出不可能となった。翌1847年の夏にフランクリン死に、船は氷から脱出できないまま1848年迎えた100人ほどになった生存者1848年春に船を放棄してそりでカナダ本土目指した、というところでメモ終わっているが、その後雪原行進する最中次々と飢餓壊血病倒れたとみられる。 さらに、8,000個も用意していた缶詰は、雑なはんだ付けのために鉛がはんだか食料溶け出し隊員鉛中毒で体や精神に異常をきたした末に全滅至った推定されている。ビーチー島に埋葬されていた水夫遺体からは高い濃度の鉛が発見されており、1846年はじめの時点鉛中毒始まっていたとみられる鉛中毒ではなくボツリヌス菌中毒探検隊全滅原因になったとする調査もある。また近年の調査では最後時点人肉食起こったとする証拠発見されている。

※この「ジョン・フランクリン隊の全滅」の解説は、「北西航路」の解説の一部です。
「ジョン・フランクリン隊の全滅」を含む「北西航路」の記事については、「北西航路」の概要を参照ください。

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