ジョン・フランクリン隊の全滅
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「北西航路」の記事における「ジョン・フランクリン隊の全滅」の解説
詳細は「ジョン・フランクリン」および「フランクリン遠征」を参照 1845年、十分な装備を整えた二隻の軍艦が、ジョン・フランクリン卿に率いられてイギリスからカナダの北極海への探検に出港した。この航海は北西航路の最後に残った不明箇所の海図を作ることが目的だった。フランクリン自身やほかの探検家たちによる調査で、カナダ北極海沿岸の未踏の海岸線はあと500kmを残すほどになっており、暖房や食料も豊富に持った探検隊は成功の自信に満ちていた。しかし3年経っても探検隊は戻らず、数多くの救助隊や捜索隊が艦隊を組んで彼らの行方を捜して北極に向かったが、さらに多くの遭難者を出す結果になった。しかしこれらの捜索隊が北極諸島にある未知の島や海峡を多く発見し、北西航路の残りの海図を作成している。129人の探検隊が北西航路のどこに消えたのかという謎は大衆の想像力を刺激し、夫の遭難を信じず自費で捜索隊を組織するフランクリン夫人はイギリス中の注目を集めた。 探検隊の出発から14年後の1859年、フランクリン夫人が組織したマクリントック隊は、航路の中間にあるキングウィリアム島で探検隊のノートや膨大な遺品、雪原に連なる遺骨を発見し、探検隊が全滅したことや全滅するに至った道のりが明らかになった。メモによれば艦隊は1845年から46年にかけてデヴォン島南西のビーチー島で越冬し、この際に3人の水夫が結核で死にビーチー島に墓が作られた。艦隊は南西へ向かったが1846年9月にキングウィリアム島付近の海域で氷に閉じ込められ脱出不可能となった。翌1847年の夏にフランクリンは死に、船は氷から脱出できないまま1848年を迎えた。100人ほどになった生存者は1848年の春に船を放棄してそりでカナダ本土を目指した、というところでメモは終わっているが、その後雪原を行進する最中、次々と飢餓や壊血病に倒れたとみられる。 さらに、8,000個も用意していた缶詰は、雑なはんだ付けのために鉛がはんだから食料へ溶け出し、隊員は鉛中毒で体や精神に異常をきたした末に全滅に至ったと推定されている。ビーチー島に埋葬されていた水夫の遺体からは高い濃度の鉛が発見されており、1846年はじめの時点で鉛中毒が始まっていたとみられる。鉛中毒ではなくボツリヌス菌中毒が探検隊全滅の原因になったとする調査もある。また近年の調査では最後の時点で人肉食が起こったとする証拠も発見されている。
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