ジャクソンのフロリダ侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 04:48 UTC 版)
「セミノール戦争」の記事における「ジャクソンのフロリダ侵入」の解説
1818年3月、ジャクソンはスコット砦に彼の軍を集めた。その軍は、800名の米国陸軍正規兵、1,000名のテネシー州志願兵、1,000名のジョージア州民兵、およびおよそ1,400人の好意的なロウワー・クリークの戦士を含んでいた。3月13日、ジャクソンの軍隊はアパラチコーラ川を下って進軍しフロリダに入った。ニグロ砦の場所に着くと、ジャクソンは兵士に新しい砦、ガズデン砦を建設させた。軍隊はその後、ミカズキ湖周辺のミカズキの村へ出発した。3月31日、タラハシーのインディアンの町を燃やし、その翌日、ミカズキの町を占拠した。300名以上のインディアンの家が破壊された。その後4月6日にジャクソンは南へと向かい、セントマークスに到着した。 セントマークスで、ジャクソンはスペインの砦を占拠した。そこで彼は、バハマ諸島で仕事をするスコットランド人商人のアレクサンダー・ジョージ・アーバスノット(en:Arbuthnot and Ambrister incident)を見つけた。彼はフロリダのインディアンと交易していて、インディアンを代表してイギリスとアメリカの当局に宛てた手書きの手紙を持っていた。銃を販売していたために、彼はインディアンに戦争の準備をさせていると噂された。彼のインディアンとの主な交易の品目は鹿の皮で、恐らく彼は、インディアンが鹿を狩るために必要としていたので、銃を販売していた。2人のインディアンの指導者、ジョサイア・フランシス とホマスレミコは、イギリスの国旗をはためかせながらセントマークスに投錨していたアメリカの船に向かって行き、そして捕らえられた。ジャクソンがセントマークスに到着するとすぐに、2人のインディアンは岸に連行され、絞首刑にされた。 ジャクソンは、スワニー川(en:Suwannee River)沿いの村を攻撃するためにセントマークスを離れた。川は主に逃亡奴隷によって占領されていた。4月12日、軍隊はエコンフィナ川(en:Econfina River)沿いにレッドスティックスの村を見つけた。およそ40名の戦士を殺し、およそ100名の女性と子供を捕らえた。彼らは村で、その前年の11月にアパラチコーラ川の上の補給船への攻撃時に捕らえられた女性、エリザベス・スチュワートを見つけた。行軍中、ルート沿いのブラック・セミノールに苦しめられながらも、軍隊はスワニーの村に人影がないことを知った。この時、元イギリス海兵隊で自称イギリスの「担当官」のロバート・アンブリスターが、ジャクソンの軍隊に捕らえられた。セミノールと黒人の主な村を破壊したので、ジャクソンは勝利を宣言し、ジョージア民兵とロウワー・クリークらを家に帰した。残った軍隊はセントマークスに戻った。 セントマークスでは、軍事法廷が召集され、セミノールを支援し彼らに戦争を扇動し、合衆国に対して向かわせた罪で、アンブリスターとアーバスノットを告発した。アンブリスターは罪を認めたが、アーバスノットは合法的な取引に従事しただけであったと無実を主張した。裁判所は両方の男性に死刑を言い渡したがその後緩和され、アンブリスターの罰を50回の鞭打ちと1年の重労働に変えた。しかし、ジャクソンはアンブリスターの死刑を復活させた。アンブリスターは1818年4月29日に銃殺隊によって処刑された。アーバスノットは彼の持つ船の桁端から絞首刑にされた。 ジャクソンは、セントマークスの守備隊を去り、ガズデン砦に戻った。ジャクソンは最初に、すべてが平和であり、自分はテネシー州ナッシュビルに戻る予定であると報告していた。後に彼はインディアンが集まってスペインから供給を受けていると報告し、5月7日に1,000名の兵士と共にガズデン砦を去り、ペンサコーラへ向かった。西フロリダ総督は、ペンサコーラのインディアンの大部分が女性と子供であり、男性は非武装であったが、ジャクソンは止まらなかったと主張した。ジャクソンが5月23日にペンサコーラに着いたとき、総督と175名のスペイン守備隊は、ペンサコーラ市をジャクソンへ明け渡してバランカス砦(en:Fort Barrancas)に退却した。両軍が2日間砲撃を交わし、スペイン軍は5月28日にバランカス砦を明け渡した。ジャクソンは、西フロリダの軍事知事としてウィリアム・キング大佐を残して帰還した。
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