シレーでの生活
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1729年にはパリに再び戻った。1733年にはエミリー・デュ・シャトレと出会い、すぐに愛人関係となった。 有名な『哲学書簡』は、1733年にイギリスのロンドンにおいて英語で発表した。この時点ではまだあまり注目されていなかったようである。翌年、オランダのアムステルダムでその海賊版が大量に刷られ、フランスのパリにも大量に流れ込むことになる。結果、この『哲学書簡』では自国よりもイギリスの諸制度の方がはるかに優れているという論調であったため、フランスの愛国者の怒りを買い、焚書の対象となり、1冊が見せしめに焼かれ、ヴォルテールには1734年にまた逮捕状が出された。この際、ヴォルテールはまずオランダに逃れ、その後愛人のエミリー・デュ・シャトレ(シャトレ夫人)を頼り、ロレーヌのシレーにあるデュ・シャトレ家の館に隠れた。しかし、友人の尽力により、すぐに告発は無効とされ、ヴォルテールは1735年3月にパリへ帰った。しかしそのあとすぐにシレーのデュ・シャトレ家の邸宅に戻り、ふたたびシャトレ夫人との同棲生活を始め、このシレーでの生活は1749年まで続いた。シレーでのヴォルテールは著作や社交を精力的にこなしながら、シャトレ夫人の趣味である科学実験も手伝っていた。シャトレ夫人は数学や物理学に対する高い見識で知られており、女性科学者の先駆けとしても知られている人物で、さらにヴォルテールの紹介によってピエール・ルイ・モーペルテュイなどの数学者から手ほどきを受けたことで、この分野に関してはヴォルテールを越える実力を持つようになった。ヴォルテールはニュートンの『自然哲学の数学的原理』の翻訳に接して、1738年『ニュートン哲学要綱』を著し、ニュートン思想の流布に一役買ったが、数学・物理学部分においてはシャトレ夫人の教えを乞うていたとされる。また、館にいつもとどまっていたわけではなく、この時期には国内外への旅行も多く行っている。1736年にはプロイセンの王太子フリードリヒからの書簡を受け取り、以後二人の文通はヴォルテールの死まで続いた。 1744年にはヴェルサイユの宮廷への出入りがふたたび認められ、このころからしばらくは宮廷での活動が多くなり、1745年には史料編纂官に任命され、1746年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出された。しかしヴォルテールと宮廷の雰囲気は全く合わず、ルイ15世とも全くそりが合わなかった。1747年にはフォンテーヌブロー城での賭けでシャトレ夫人が大損した事件ののち、再び地方へと逼塞することとなる。1749年にはシャトレ夫人が死去し、シレーを出てパリに戻った。
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