シマによる短い支配期とは? わかりやすく解説

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シマによる短い支配期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:49 UTC 版)

鉄衛団」の記事における「シマによる短い支配期」の解説

第2次世界大戦始まってから数ヶ月間、ルーマニアは公式には中立保った。カリネスク首相暗殺後でさえ、カロル国王中立維持しようとした。ナチス・ドイツはまずポーランド侵略したが、このとき、ルーマニアポーランド逃亡政府関係者避難先を提供したフランスイギリスポーランド保護保証していたが、その約束果たされなかった。1939年8月23日独ソ不可侵条約締結されルーマニアソビエトとの間にあるベッサラビアソビエト領有しようとしていることが明らかになっていた。ルーマニアも、フランスイギリスから安全を保証されていたが、ポーランド同様に、この約束頼りにならなかった。やがてフランス降伏しイギリスヨーロッパから退却したため、両国ルーマニアへ保証は完全に無意味になった。このような状況では、ルーマニアは、独・ソを頼るしかなかった。 枢軸国側との政治提携は、軍団生き残りには明らかに有利に働いた1940年7月4日成立したイオン・ジグルトゥ(en:Ion Gigurtu)の政府には初め軍団メンバー入閣したものの、それまで抗争弾圧によって主だったカリスマ的指導者達は既に死亡していた。その生き残り一人極端な反ユダヤ主義者ホリア・シマHoria Sima)であり、コドレアヌ亡き後リーダー肩書き受け継いだ1940年9月4日軍団イオン・アントネスク将軍(後に元帥)と連携組んで政権奪いカロル2世強制的に退位させて息子ミハイ1世王位を継がせた。彼らは、それまで以上に枢軸国側味方する姿勢明らかにした(ルーマニア正式に1941年6月枢軸国参加する)。シマは、内閣副首相となった軍団は、政権の座につくと、得意技術活かして利益供によって懐柔したり、商業・金融部門から徹底的に強奪恐喝をしたりしながらそれまで以上に厳し反ユダヤ法律多く制定するようになったまた、ユダヤ人虐殺政治的な暗殺などが、堂々と行なわれるようになった以前高官役人がジラヴァ刑務所送られ裁判なしで処刑され人数60人以上に上った元総理大臣で歴史家のニコラエ・ヨルガ(en:Nicolae Iorga)や、やはり元大臣経済学者でもあったVirgil Madgearは、逮捕もなくいきなり殺された。 鉄衛団は、ホロコースト加担したという悪名知られている。東ルーマニアベッサラビアブコヴィナトランスニストリアヤシ市など)にいたユダヤ人は、集団的な殺戮ポグロム)によって断絶した。 しかし、衛軍はやりすぎた衛軍が扇動してクーデター起こしたが、1941年1月24日ドイツ軍から支援受けたアントネスク鎮圧された。内戦3日間、首都ブカレスト衛軍は、何十人ものユダヤ人市民ブカレスト畜殺場で殺害するなど、ひどいユダヤ人虐殺扇動したクーデター失敗結果軍団公職から外され政府庇護失ったホリア・シマや他の軍団員ドイツ逃れたが、投獄された者もいた。シマドイツ降伏後スペイン逃れ1993年死去した

※この「シマによる短い支配期」の解説は、「鉄衛団」の解説の一部です。
「シマによる短い支配期」を含む「鉄衛団」の記事については、「鉄衛団」の概要を参照ください。

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