シガチョフ・チェイス
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「シガチョフ事件」の記事における「シガチョフ・チェイス」の解説
シガチョフは、現地偵察のために観光ビザで2000年3月2日に日本に入国した。(他のメンバーもシガチョフ同様、数度日本に入国している)青森市・新潟市・東京などにおいて、爆弾の設置に適した人口密集地・休憩場所・爆弾の保管場所を選定し、その写真を撮影した。沿海地方に戻った後、トゥペイコと共に麻原脱出用の小型船舶操縦免許を取得した。 トゥペイコは、中国製目覚まし時計を利用した7個の起爆装置を組み立てていた。ところが、組立作業中にミスにより雷管が暴発し、トゥペイコは病院に運び込まれた。トゥペイコは、事故現場に駆けつけた民警職員に尋問されたが、適当な話をでっち上げてその場をごまかした。この後、武器と爆弾は別の場所に移された。計画では、シガチョフとトゥペイコは飛行機で、船員パスポートを有するヴォロノフは船で日本に潜入する予定だった。6月13日、武器と爆弾がアパートに運び込まれ梱包された。 同年6月22日、シガチョフはウラジオストクから新潟空港へ入り、日本でのテロ行為の準備を行なおうとした。これに対し、他のロシア人信者からシガチョフの行動についての連絡を受けたアレフ、上祐史浩は、まず東京入国管理局(新潟空港のある新潟県を管轄)と交渉して入国を阻止しようとした。しかし入管は入国を認めてしまう。上祐は警視庁公安部と連絡をとりつつ、信者を派遣して24時間行動確認を行なう。上祐はこのころ、疎遠になっていた麻原彰晃の3女であるアーチャリー(松本麗華)にシガチョフの件で接触を試みる。上祐はこの際、アーチャリーには2人で会おうと言っておきながら実際には多数の部下を引き連れていった。この時の対話の内容は明らかになっていないが、アーチャリーを利用しようと試みたと考えられる。シガチョフは福岡に移動し、さらに当時開かれようとしていた九州・沖縄サミット会場の沖縄へ向かうつもりだったが、警視庁・福岡県警の説得により、自由な行動が不可能であると悟り、断念。新潟に戻り、6月25日に帰国するが、他のメンバーがどういう経緯でロシア当局に確保されたのかは不明。ユルチュクに限っては確保されるまでは逃走経路は全くわかっていない。
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シガチョフ・チェイス
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1999年(平成11年)12月29日の広島刑務所出所後も、教団で有力者とみられていた。公安警察から当初は教団再活性化の危険性があるのではないかと危惧されていた。
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