サンマリノGPの悲劇とその後の安全問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:33 UTC 版)
「1994年のF1世界選手権」の記事における「サンマリノGPの悲劇とその後の安全問題」の解説
2月に行われたシルバーストンのテストで、J.J.レートのマシンが大クラッシュ。レートは頸骨を骨折する大怪我を負い開幕2戦を欠場。さらにブラジルGP後のテストで、ジャン・アレジが負傷し2戦欠場となった。 そして、サンマリノGPは後に「呪われた週末」と呼ばれることとなった。まず、金曜予選中にルーベンス・バリチェロが負傷し決勝の欠場が確定すると、土曜予選ではフロントウイングが脱落してコントロールを失ったシムテックのローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュして死亡してしまう重大な事故が起きてしまっている。さらにアイルトン・セナが、決勝のトップ走行中にクラッシュし、搬送先の病院で死亡が確認された。そのうえ、決勝はセナの一件以外にも、スタート直後にJ.J.レートとペドロ・ラミーが接触し、舞い上がったパーツが観客に当たり怪我をする事故やピットインしたミケーレ・アルボレートのマシンからタイヤが外れピットクルーを巻き込み負傷事故が起きるなど、大事故が多発した。F1開催中の死亡事故は1982年のリカルド・パレッティ以来(テスト走行では1986年にエリオ・デ・アンジェリスが死亡)となり、カーボンモノコックの普及により築かれた安全神話は打ち砕かれた。このGP中の事故の多発も含め、3度のワールドチャンピオンの突然の死は母国ブラジルだけでなく、世界中のモータースポーツファンに衝撃を与えた。 そのため、相次ぐ死傷事故に早急な安全対策が求められたが、本格的な変更はモナコGP後に実施される予定であった。だが、5月12日のフリー走行中、カール・ヴェンドリンガーが一時意識不明に陥る事故が起きた。これを受け、ドライバーが結束しGPDAを再興。FIAに安全について要求した。それを受けFIAはモナコGPはピットレーンにおける制限速度を即導入し、スペインGPではマシンに規制を行うという追加のレギュレーション変更を正式に発表。だが、発表されたのは5月13日、スペインGPの開始日は5月27日、決勝戦は5月29日なため、最大でも2週間の猶予しかなく、急場の改造によってむしろ危険性が増すのではないかという不安を招いた。そして、それは現実となり、ペドロ・ラミーが別のコースでスペイン仕様のマシンをテスト中、リアウィング脱落によって大クラッシュを喫し、全治1年とも言われる重傷を負った。そのうえ、スペインGPの予選走行中、ラッツェンバーガーの代役アンドレア・モンテルミーニが脚を骨折。参加チームによる批判はさらに高まり、FIAもスペインGPの一件を経て場当たり的な変更から安全性を重視したうえで変更するようになった。 また、全体的に見ればシーズン中にレギュレーションが改訂されつづける異例の事態(詳細はF1レギュレーションの「1994年シーズン途中から」を参照)となり、サーキットの安全性も指摘され、ベルギーGPでは名物の高速コーナー、オー・ルージュに仮設シケインが設けられた。そして、シーズン終了後、シーズン中の事故の多発を受け、まずサーキットの安全対策が徹底されることとなった。また、レギュレーション変更だが、性能の格差解消は継続していたものの、安全性に重点が置かれるようになり、以降はテストや項目をクリアしていないマシンの参加は認めないという方針に舵へきっていくこととなる。
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