サラヴァのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/20 08:04 UTC 版)
1976年以降は、メジャー・レーベルのRCAの社長、フランソワ・ダクラの協力を得て、ライセンス契約のもと、アルバムを出し続ける。 キャロル・ロール、ルイス・フューレイ、モラーヌなど、後にメジャーになった新人を発掘し続ける。 同時にサウンドトラック盤で、ウーザン・トレーシー監督や、トルコの映画作品「壁」「足跡」など、また、作曲家ではガブリエル・ヤレードを中心としてアルバムを世に出した。 RCAの後ではMelodie、Media7などの会社とライセンス契約を結んだ。 80年代には、詩人で俳優のフィリップ・レオタールの初アルバムをプロデュース。モラーヌがブレークするまでの数枚のシングルとアルバムを製作、ユニバーサル・ミュージックとモラーヌが契約にいたるまでの下地を作った。 80年代後半には、経済的危機を抜け出したサラヴァは新たに多くのアルバムをリリースする。バルー自身のアーチスト活動も同時に広がる。バルーはチリ出身の演劇集団テアトルアレフの演出と主演、シナリオと音楽芝居の歌を数多く作った。演目は 「ラストチャンスキャバレー」"La maison accepte l'echeque" "Memoire du vents" その他多数。 90年代にはバルー自身がカメラを持ってドキュメンタリーフィルムを作る(「アコーデオン」)。CD作品では「ノエル」。 プロデュースでは、ダニエル・ミル、フランソワーズ・クシェイダ、ビーア、アラン・ルプレスト、リシャール・ガリアーノ、ピエール・ルッキー、フレッド・プレ、マミチャン、ドラジビュスなど、多くの新人を発掘。 サラヴァの事務所はバスティーユに引越し、一階には「BIMBO Tower」というブチックを構え、息子のバンジャマン・バルーがチームに参加して、「ポポクラシックレーベル」を作る。 1994年には「ラストチャンスキャバレー」(プロデュース:アトリエダンカン、演出:ピエール・バルー)が文化村コクーン劇場を始め、大阪、名古屋、横浜で上演される。バルーは日本語で演じた。 2000年からバルードキュメンタリーフィルム作成に本格的に乗り出す。「アダン」、「サヴァ・サヴィアン・ビス」「時と時刻」(ロベール・ドアノーと俳優緒形拳との出会いの軌跡)「左利きマラソン」など。また文学作品の執筆に没頭する。 2007年には久々のバルーのアルバム『ダルトニアン』をリリース。 2011年、「サラヴァの日本における拠点」としてサラヴァ東京がオープン。
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