サラン峠をめぐる戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 07:55 UTC 版)
アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)時には、重要な補給路上に位置することとなったことから、峠をめぐりムジャーヒディーンとソビエト軍との間で非対称戦が行われた。1984年7月24日付けのプラウダでは、峠付近に焼けただれ破壊された装甲車が転がっていること、道路に弾痕が残っており、守備隊が敵の攻撃に備えている様子などを伝えている。 ソ連軍撤退後の1990年代の内戦(アフガニスタン紛争 (1989年-2001年))時には、峠が北部同盟とタリバンの前線となった。戦闘が続く中で、マスードの軍隊がタリバンの北侵を食い止めるためにサラントンネルの両端を爆破し、トンネルの機能と安全性を一気に低下させた。戦後、瓦礫を除去して供用が再開されたが、内部は照明が無く、路面が浸水するなど荒廃しているという。
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