ゴールデンステイト・ウォリアーズ時代
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「ティム・ハーダウェイ」の記事における「ゴールデンステイト・ウォリアーズ時代」の解説
1989年ドラフト1巡目14位でゴールデンステート・ウォリアーズに指名された。 1年目 23歳 89-90シーズン 背番号は5。ハーダウェイと言えば10だが、当時は既にマヌート・ボルが10を使用していた。 平均得点14.7、アシスト8.7と新人としては優秀な成績を収め、オールルーキーファーストチームに選出された。新人王候補だったが、惜しくも逃す(新人王は、サンアントニオ・スパーズのデビッド・ロビンソン)。 2年目 24歳 90-91シーズン 平均得点22.9 アシスト9.7 マヌート・ボルがフィラデルフィア・セブンティシクサーズに移籍した事により、背番号を10に変更。2年目以降、ハーダウェイの平均得点は20を越え、オールスターにも選出。当時のウォリアーズは、クリス・マリンやミッチ・リッチモンドを擁したリーグ屈指の得点力を持つチームだった。ハーダウェイとマリン、リッチモンドはチームの稼ぎ頭で、3人はそれぞれの頭文字から当時人気のあったミュージシャン「ラン・DMC」をもじって「ラン・TMC」の異名で呼ばれた。 3年目 25歳 91-92シーズン 平均得点23.4 アシスト10.0 2年連続でオールスターに選出。オールスターにはファン投票でスターター出場が確定していたが、自分は今後もチャンスが有るとし、引退を表明していたマジック・ジョンソンに、敬意を表しスターターを譲った。 4年目 26歳 92-93シーズン 平均得点21.5 アシスト10.6 2年連続で平均得点20、アシスト10を越えたのはリーグ史上ハーダウェイで5人目だった。シーズン中には、オスカー・ロバートソンに次ぐNBA史上2番目の早さで通算得点5,000、通算アシスト2,500に達した。このシーズンは膝の怪我で16試合を欠場し、のちにハーダウェイを悩ます膝の故障に見舞われた最初のシーズンとなった。 このシーズンまで3年連続でオールスターに出場し、94年に開催の世界選手権のアメリカ代表メンバー、"ドリームチームⅡ"にも選出。ところがメンバー発表から2週間後、練習中に左ヒザの前十字靭帯を断裂の大怪我を負い辞退(フェニックス・サンズのケビン・ジョンソンが代役選出)。さらに、5年目の93-94シーズンは、全試合欠場するほどの重傷だった。 5年目 27歳 93-94シーズン 左膝の前十字靭帯断裂により、試合出場無し。 6年目 28歳 94-95シーズン 平均得点20.1 アシスト9.3 怪我から復帰も、以前のスピードが失われ、ドライブよりもアウトサイドシュート中心の攻撃スタイルにシフトせざるを得なくなったが、失ったスピードを技と経験でカバーする様になった。 彼の欠場中、ウォリアーズではラトレル・スプリーウェルが新たにスターとなっていた。スプリーウェルもハーダウェイと同じ攻撃型タイプで、積極的にシュートを打つ選手の為、彼ら2人がボールを取り合うようになって混乱が生じた。しかもスプリーウェルはドン・ネルソン監督と犬猿の仲で、やがてスプリーウェルは、ネルソン監督のお気に入りであるハーダウェイとも反目し合うようになった。そして、シーズン途中にネルソン監督が解任されると、いよいよハーダウェイはチーム内で孤立していった。 7年目 29歳 95-96シーズン 平均得点15.2 アシスト8.0 リック・アデルマンが監督となり、彼の采配により、シカゴ・ブルズから移籍してきたB.J.アームストロングがスタメンとなった。格下とも言えるB.J.の控えに降格させられ、アデルマン監督に公然と反抗し、遂にはシーズン途中で、マイアミ・ヒートへトレードされる事となった。
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