コークのセント・フィン・バーレの大聖堂
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「ウィリアム・バージェス」の記事における「コークのセント・フィン・バーレの大聖堂」の解説
バージェスは初期のコンペに落選していたが、イングランド・ビクトリア期の半ばに始まった建築スタイルの危機に、初期フランス様式が答えを与えられるという信念を持ち続けており、「私は13世紀の信念で育てられ、その信念を持って死ぬつもりだ」と記していた。35歳になった1863年に、コークのセント・フィン・バーレの大聖堂という最初の大きな注文を得ることができた。バージェスはその日記に「コークを得た!」とその喜びを記している。 セント・フィン・バーレの大聖堂のコンペは、1735年に建てられた現存建築に不満が広がった結果として生じた。この建物について、「ダブリン・ビルダー」誌が「コークを長く不名誉にしていた大聖堂のみすぼらしい謝罪」と表現していた。イギリス諸島ではセント・ポール大聖堂以来となる大聖堂の建設だった。提案された予算は15,000ポンドと安かったが、バージェスはこの拘束条件を無視し、2倍も掛かることになると自ら認めるようなデザインを行った。仲間のコンペチターからの抗議にも拘わらず、バージェスが入選した。ただし最終的な建設費は10万ポンドを超えることになった。 アイルランドでは以前に、キャリグロヘインのセントピーター教会、テンプルブリーディのホリー・トリニティ教会、フランクフィールドおよびダグラスで働いたことのあったバージェスは、司教のジョン・グレッグなど地元の強い支持が得られた。さらに、「アイルランド・ハンドブック」に記されているように、バージェスは中世様式に対する愛情を、プロテスタントの豊かさを目に付きやすく表現することと組み合わせた。これは、確立されたアイルランドの英国国教会がその優越性を主張することを求めていた当時、重要な要素だった。 外観には以前に実行されなかった計画のものを再利用した。全体デザインはクリミア記念教会とブリスベンのセントジョンズ大聖堂のものから採られ、正面はリール大聖堂のものから採られた。この建物の大きな問題点はその大きさだった。その資金集め組織は多大な努力をしたが、またバージェスは当初予算を超過したが、コークでは依然として真に大きな大聖堂を造る余裕がなかった。バージェスは3基の尖塔で雄大さを表現し、他の部分は小さくすることで相殺して、この問題を克服した。 この大聖堂は、大きさでは控えめだったが、大変豊かな装飾を施された。バージェスは以前にやっていた通り、バッキンガム通りの事務所から、また多くの訪問した場所に行く途中から、彫像、ステンドグラス、家具までデザインのあらゆる面を監督し、個人的に関わる度合いが強かったために、その設計費については通常の5%より高い10%を請求した。西面を飾る彫刻や建物の内外面を飾る彫刻の1,260体全ての図面を引いた。74有ったステンドグラスの大半については下絵をスケッチした。モザイク舗道、祭壇、説教団、司教座をデザインした。ローレンスとウィルソンはその結果を「教会建築における(バージェスの)疑いもなく最大の作品」であり、内装は「圧倒させるものであり、夢中にさせるものである」と考えている。バージェスの能力、そのチームの注意深い指導、全体的な美観の統制、さらに当初予算の15,000ポンドを遙かに超えたことを通じて、その大きさは教区教会の規模をあまり超えてはいないが、印象においてはローレンスとウィルソンの研究で「ある都市とその子孫が全能者の称賛に値する記念碑と見なすことができるような大聖堂」と表現した建物を生みだした。
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