コッラディーノの来訪・破門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:21 UTC 版)
「マスティーノ1世・デッラ・スカラ」の記事における「コッラディーノの来訪・破門」の解説
1266年、ホーエンシュタウフェン家の最後の子孫であるコッラディーノ・ディ・スヴェヴィアは、神聖ローマ皇帝コンラート4世とバイエルン家のエリーザベト・ディ・バヴィエラの子として、内紛の続くイタリア各州の平和回復を口実に、間もなくイタリアに武装した状態で来るとの報せを伝えた。 シュヴァーベン公だったコッラディーノは1267年、ドイツの諸侯をなだめた上で、アルプス越えを決意していたという。一方、マスティーノはチロル伯の助けを借りてトレントの司教を追い出し、国境地帯にある重要な町にヴェローナ領主領を設置し、短期間ながらヴェローナの支配領域を大幅に拡大した。同年10月21日、コッラディーノはヴェローナの門をくぐり、街を装飾し、豪華な客人を迎えるために大規模で豪勢な宴会を用意していたマスティーノからの朗らかな歓迎を受けた。しかし、ヴェネト、ロンバルディア、さらにはトスカーナやシチリアのほとんどの都市から大使がヴェローナにやってきて、コッラディーノに敬意を表しているうちに、ローマでは(同年)11月18日に教皇クレメンス4世がコッラディーノとコッラディーノを支持する全イタリア、とりわけヴェローナのギベリン(皇帝派)に対して破門を宣言していたのである(マスティーノはもちろん、弟のアルベルトも含まれていた)。ヴェローナの人々はこれに深く衝撃を受けたが、ほとんどの人はすぐにこのことを忘れ、「まだ日曜日のミサに出席できた」という。コッラディーノは直後にパヴィアに招かれ、1268年、コッラディーノはマスティーノとヴェローナの民兵に護衛されて同市へ赴いた。パヴィアに到着すると、コッラディーノたちは再び朗らかに歓迎をされ、マスティーノはロンバルドのポデスタに昇格することとなった。 一方ヴェローナでは、マスティーノの不在の間に事態は悪化した。ロドヴィーコ伯爵率いるサンボニファチオ(Sambonifacio)家は、プルチネッラ・デッレ・カルチェリ(Pulcinella delle Carceri)と同盟し、レニャーゴ、イッラージ、ヴィッラフランカ、その他ヴェローナの多くの町で、デッラ・スカラ家の守備隊の排除に成功していたのである。この結果、反デッラ・スカラの軍だけでなく、住民たちも巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられ、住民たちはめいめいの軍のところに亡命せざるを得なくなった。この激しい衝突の中で、マスチーノの弟ボッカ・ダラ・スカラ(Bocca)も命を落としている。しかし間もなく、マスティーノの軍隊は勝利し、陥落した町や村の支配権を取り戻し、ヴェロネーゼから追放された者たちが居を構えていたマントヴァと和平・同盟交渉が行われ、アルベルト1世やマスティーノ2世の政権下で反逆者が受けたほど残虐なものではなかったながらも、彼らは処罰されることとなった。 1274年、マスティーノはアルベルトをマントヴァのポデスタ(領主)に任命することに成功し、2つの都市間の永続的な平和と友好関係を保証した。この平和な時代に、マスティーノは宮殿や城の装飾や増築、経済と都市貿易の管理、さらにヴェネト全土から芸術家や文人を宮廷に招くことなどに専念した。 コッラディーノの死で、栄光のホーエンシュタウフェン王朝は滅亡した。しかし間もなく、新しい神聖ローマ皇帝ルドルフ・フォン・ハプスブルクの使節が、帝国国旗と皇帝個人の旗を携えて麗麗とヴェローナに到着した。施設はルドルフからの挨拶を預かっており、評議会やヴェローナの人々からの忠誠の慣行を待っていた。評議会は、ヴェローナに忠誠を誓わせ、ヴェローナは再びドイツ皇帝の「保護」下に入った。ヴェローナは神聖ローマ帝国の支配下に置かれたが、教会との関係は非常に不安定な状態が続いた。なんとなれば、破門状態が解かれていなかったためである。
※この「コッラディーノの来訪・破門」の解説は、「マスティーノ1世・デッラ・スカラ」の解説の一部です。
「コッラディーノの来訪・破門」を含む「マスティーノ1世・デッラ・スカラ」の記事については、「マスティーノ1世・デッラ・スカラ」の概要を参照ください。
- コッラディーノの来訪・破門のページへのリンク