コサックの国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「コサックの国家」の解説
詳細は「ヘーチマン国家」を参照 ペレヤースラウ条約は、1648年から1653年にかけて創立したコサック国家の存在を法律上で承認した。この国家は、戦時中に誕生したこと、軍人であるコサックによって統治されたこと、また「ザポロージャのコサック軍」という正式な国号を有していたことから、軍事国家であったと考えられている。国家の元首は、コサックによって終身選任されて国内の最高立法権・行政権・裁判権を有するヘーチマンであった。そのため、「ザポロージャのコサック軍」はヘーチマン国家とも呼称されていた。その領土は、ドニプロー川を軸にして現在の中部ウクライナから南ベラルーシまで拡大していた。面積はおよそ20万km²の面積で、人口は約300万人であったという。1660年代までの国家の首都はフメリニツキーの故郷、チヒルィーンの城に置かれていた。 社会は、コサック・貴族・聖職者・町人・農民という階級に分かれており、国権はコサックのみによって発動されていた。コサック以外の階級は国政運営から切り放されていたが、貴族と聖職者は身分権・領地自治権が保障されており、町人はドイツ法に基づく自治権を有していた。また多く農民は、フメリニツキーの乱によって農奴から開放され、自由な所有者となり、税金と引換えに土地を所有することが許された。フメリニツキー統治下のコサック国家では階級の境界は柔軟で、貴族と町人がコサックになることも少なくなかった。 フメリニツキー統治下のコサック国家の行政区分はコサック軍の組織を真似し、国家は連隊・百人隊・十人隊という、コサックを迅速に動員できる行政単位に分かれていた。軍事行政区分の傍らに市町村という民間区分も存在した。十人隊は特定の町か村に置かれ、コサックによって選任された十人隊長に運営されていた。現地の民間行政と十人隊の維持は町か村の長に任されていた。いくつかの十人隊で百人隊を構成し、百人隊はコサックの連隊長から任命された百人隊長が司った。百人隊の行政所在地は大きな町ないし市に置かれ、軍事行政は百人隊長の他に百人隊の弾正官・書記官・旗手官に任されていた。民間の行政は市町の役所と連携して町のコサック長官が担当した。11ないし22の百人隊は連隊を構成し、特定の市に置かれる連隊行政所在地に属していた。連隊はヘーチマンが任命する連隊長と連隊の長官と呼ばれる連隊の弾正官・郵送官・裁判官・書記官・旗手官によって運営された。連隊長は、大きな裁判権と財政権を有し、連隊の区域でヘーチマンの名代の機能を果たしていた。百人隊と同様に、連隊が置かれる市の民間の行政は、町のコサック長官と市の自治政権が司った。全体として国内の連隊の数は常に16を超えていた。連隊制とは別に、コサック国家内で自治制を保つウクライナ・コサックの根拠地ザポロージャのシーチが存在し、それはヘーチマンの直轄地とされ、ヘーチマンに任命された連隊長と違って、シーチのコサックが選ぶコサック大長官によって治められた。 従来のコサックの習わしによれば、国政はヘーチマンとコサック全員との大議会で行うはずであったが、フメリニツキー時代のコサック国家の大議会はほとんど開催されることなく、国政に関するすべての判断はヘーチマンの独断か軍の長老衆と呼ばれるコサックの最高長官との相談によって決められていた。軍の長老衆には、外交を司る軍の書記官、物資輸送と砲兵を担当する軍の輸送官、最高裁判を司る軍の裁判官と、副官的業務を行わせる軍の弾正官・旗手官・馬印手官が入っていた。国の財政を握ったのはヘーチマンのみであり、国家予算の内容は戦利品と徴税からなっていた。
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