ゲーム理論の教育研究と普及
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「鈴木光男」の記事における「ゲーム理論の教育研究と普及」の解説
1953年に鈴木が学会誌に解説を執筆した際には、他の研究者も含めて「game」を使っており、まだゲームへの訳すらも定まっていなかった。また、恩師の安井琢磨から依頼された『線形計画と経済分析』の翻訳を断ったのは著者のドーフマン、ポール・サミュエルソン、ロバート・ソローがゲーム理論に対して批判的だったためであり、安井も他のゲーム理論研究者に対して批判的な発言することもあった時期であった。 1959年に出版した『ゲームの理論』では比較的早く協力ゲームや不動点定理を紹介し、「日経・経済図書文化賞」を受賞した。しかし東京工業大学の学生から文系的過ぎると批判されたため、鈴木は『ゲーム理論入門』を執筆した。1981年に出版されたこの本は広く読まれ、21世紀になってからも新装版が刊行されている。 鈴木は「日本におけるゲーム理論の第一人者」と言われるとともに、教育に関する業績や著書も評価されており、「日本のゲーム理論の父」と呼ぶ研究者もいる。鈴木は東京工業大学でゲーム理論を扱う講義を始めたが、世界的にも珍しい試みであり、講義させてくれた大学関係者、授業を聞いてくれた学生、研究室・セミを選んでくれたメンバーに著書で感謝の意を示している。なお、鈴木が語るゲーム理論はマルクス経済学風との評もある。 鈴木は社会システムをゲーム理論で解析していき、ゲーム理論の社会工学的側面を開拓した。また、鈴木は中村ナンバーの中村健二郎や、中原賞を受賞して日本経済学会会長を務めた岡田章らを輩出している(#門下生の育成も参照)。ゲーム理論の冬の時代から多くの批判に耐えて教育研究に取り組んだ鈴木は、自著の中で「日本という僻地で、ゲーム理論という生き物に、毎日、水をやって、枯らさないようにしてきたに過ぎない。幸いそれが成長して、日本でもゲーム理論に対する理解が深まり、多くの人材が多方面で活躍するようになった」と述べている。
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