グレート・プラット川道路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 22:58 UTC 版)
「カリフォルニア・トレイル」の記事における「グレート・プラット川道路」の解説
後にネブラスカ州やワイオミング州となった地域を流れるプラット川には多くの水路や島があって、浅く、屈曲しぬかるんでいて予断を許さないために、ミズーリ川に至る網状の経路を辿るときにカヌーですら遠くまで行けない状態だった。しかしプラット川流域は上り坂が緩やかで荷車を容易に進めることができ、ほぼ真西にむかっており、また水、草、バッファローおよび焚きつけにするバッファローの糞が容易に得られた。幅約1マイル (1.6 km)、深さ2インチ (5 cm) から60インチ (150 cm) のプラット川には両岸にぬかるんだ道があった。現在のネブラスカ州内にはプラット川流域で約450マイル (720 km) の道があった。プラット川の水は沈泥質のものでまずかったが、他の水が無い時には使うことができた。1時間かそこら静置しておけば上澄みを取ることができた。宿営に適した場所はプラット川に注ぐ多くの清流がある所か、行程にそって見つけた偶々清水が湧き出ている所だった。これら宿営に適したところはコレラが流行った時期(1849年-1855年)に、大変限られた汚水施設のある同じ宿営地を数千の人々が使ったので、不幸にもその発生源となった。コレラの原因(汚染された水からコレラ菌を取り込むこと)や治療法は当時知られていなかった。プラット川の南を旅した者は、サウスプラット川の3つある渡し場(乾季には渡し舟無しでも渡ることができた)の1つを使ってぬかるみ危険な渡河を果たし、その後ノースプラット川を遡って現在のワイオミング州ララミー砦に進んだ。サウスプラット川を渡った後は、上り下りの急な丘のあるアッシュホローに出た。さらに数日進むと、コートハウス岩と呼ばれる平原から突き出した巨大な岩群に出遭い、そこから20マイル (32 km) 先には衝撃的なチムニー岩、続いてキャッスル岩、最後はスコッツブラフに行き当たった。 1852年以前、ノースプラット川を渡って北岸に出た者はララミー砦の南側に出た。1852年以後、北岸の「チャイルズ・カットオフ」を使って現在のワイオミング州キャスパーまで進み、そこから南岸に渡った。ララミー砦から西の道は地形が多くの丘や谷で切られて険しくなり、ノースプラット川に流れ込む支流は急峻な峡谷になることもあって、道は川から逸れなければならないこともあった。1850年の移民、サリー・ヘスターは、地形が巨大な熊に爪を立てられたかのようであり、「世界でも最悪の60マイル (100 km) の道路」と表現した。標高1,050フィート (320 m) のオマハからプラット川とノースプラット川を辿り、標高5,050フィート (1,540 m) のキャスパーまで約650マイル (1,000 km) の行程だった。幸いなことにララミー砦から先の川の流れは速く、コレラが伝染する可能性を減少させ、その致命的な襲撃ははっきりと減っていった。ノースプラット川が南西に振れる現在のキャスパーの町近くでノースプラット川にスウィートウォーター川が合流し、道はノースプラット川を渡って、スウィートウォーター川に沿い、ワイオミングを横切って標高7,550フィート (2,300 m) のサウス・パスで大陸分水嶺に至った。サウスパスに至るまでは少なくとも9回スウィートウォーター川を渡ることになった。サウス・パスからの主要道はビッグサンディ・クリークを辿ってグリーン川に出合ってそれを越えた。ここでは良く利用された時には3ないし5つの渡しが利用できた。流れが速く危険なグリーン川は、幅100ないし300フィート (30-90 m)、深さは7月と8月の高水位期で10ないし50フィート (3-15 m) あり、渡るのは危険だった。幾つかの渡しが運行していたとしても、船を待つためにしばしば数日間を要した。主要路はグリーン川を下ってグリーン川のブラック支流にあるブリッジャー砦に至り、そこからモルモン・トレイルが分かれた。 チムニーロック、ネブラスカ州 スコッツブラフ、ネブラスカ州 轍の名残、ワイオミング州
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