ギンスハイム区
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「ギンスハイム=グスタフスブルク」の記事における「ギンスハイム区」の解説
この地区の名前は、おそらくフランク人の Gimmo家に由来する。1211年に "Oculus Memorie"(エーバーバッハ修道院の資産目録)に "Ginnensheim" として初めて記録されている。1248年に、それまで帝国領であったこの村は、カッツェンエルンボーゲン伯ディーターに借金の担保として委ねられた。その後、フランケンシュタイン家、ザイエン家、イーゼンブルク家と時代ごとに貴族家の間を譲渡された。そして、1600年にヘッセン方伯ルートヴィヒ5世の所領となった。この村は、三十年戦争で甚大な被害を受け、1634年から1642年まではほとんど人が住まない状態であった。 行政上、ギンスハイムは、1820年までアムト・ケルスターバッハに属した。このアムトは1816年からはヘッセン大公国のプロヴィンツ・シュタルケンブルクに属した。1821年に大公国にラントラーツベツィルク制が導入され、ギンスハイムはラントラーツベツィルク・ドルンベルクの一部となった。1832年にさらに組織変更がなされ、クライス(郡)が設けられた。これによりギンスハイムは、グロース=ゲーラウ郡に組み込まれた。大公国のプロヴィンツ、郡、ラントラーツベツィルクは1848年7月31日に廃止され、レギールングスベツィルクに改組されたが、1852年5月12日に元に戻された。この1848年から1852年までの間、ギンスハイムはレギールングスベツィルク・ダルムシュタットに属した。1927年にギンスハイムとグスタフスブルクとが合併し、複合自治体ギンスハイム=グスタフスブルクが成立した。1930年にギンスハイム=グスタフスブルクは、マインツ=グスタフスブルクとして、マインツの市区となった。 昔のギンスハイムの典型的な職業は、農民、漁師、粉挽きであった。製粉所はやがて本格的な工業へと発展した。ギンスハイム前に投錨する粉挽き船は、時によって最大 15隻もあった。最後の粉挽き船は 1929年に操業を停止し、保護文化財に指定されてマインツ港に投錨していたが、第二次世界大戦時の爆撃によって破壊された。2011年以降、ギンスハイム前のライン川に歴史的な粉挽き船が再現されている。 第二次世界大戦では、1944年4月22日の深夜、イギリス空軍によるマインツ空襲のためにギンスハイムは甚大な被害を受けた。これにより納屋 22棟、家畜舎 20棟、家屋 3棟とプロテスタント教会が完全に焼失した。この空襲による死者はなかった。1944年の夏にはすでに破壊された納屋、家畜舎、家屋は再建されたが、プロテスタント教会が献堂されたのは 1953年12月6日であった。1945年3月末に第二次世界大戦は再びギンスハイムに打撃を与えた。この地域はたびたびアメリカ軍とドイツ軍との戦場になった。1945年3月28日、この町は降伏し、アメリカ軍がギンスハイムに入場した。戦後この町は、アメリカ占領地域に含まれた。その後ヘッセン州が建設されると、マインツ市のライン右岸の市区はヴィースバーデンに編入されるか、あるいは独立した自治体となった。マインツ=グスタフスブルクはギンスハイム=グスタフスブルクとして独立した自治体となり、グロース=ゲーラウ郡に再び編入された。 ノンネナウ(アルトラインフェリー「ヨハンナ」)、ランゲナウ、ラーベンヴェルトといった中州の牧歌的な風情や、絵画のようなライナウエ(ライン川沿いの草地)はギンスハイムを人気の近郊型保養地にしている。見所は、1746年にバロック様式のホール式教会として建設されたプロテスタント教会である。6月の第1週末に地元のサークルによって開催されるアルトライン祭は、市の内外から多くの見物客を集める。
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