キュビスムの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:21 UTC 版)
「ジョルジュ・ブラック」の記事における「キュビスムの時代」の解説
1909年、ブラックはパリで2点の作品をサロンへ出品した。このとき初めてキュビスム的絵画が大衆へ曝されることとなり、大きな噂となる。実はブラックやピカソの絵は、これよりも少し前から公の場にはあまり出ていなかった。なぜなら、ドイツ人画商ヘンリー・カーンワイラー(英語版)が彼らの作品をコントロールしていたからである。彼は急進的な画家をいち早く抱えこみ、彼らの作品を自身の画廊に展示していた。サロンへの出品を止めるよう諭しながら、安定的な報酬を画家たちに約束したのである。そのためブラックやピカソらをギャラリー・キュビスト、その他の追従的なキュビストたち(ロベール・ドローネー、アルベール・グレーズ、フェルナン・レジェ、ジャン・メッツァンジェ、アンリ・ル・フォーコニエら)をサロン・キュビストと区別する場合もある。前衛芸術を擁護した詩人アポリネールがその垣根を越えたキュビスト同士の交流を促進させたため、その後キュビスムという芸術が広く認知されるようになっていった。それまで遠近法を用いたアカデミックな芸術に慣れ親しんでいた大衆たちは、突然の新しい芸術に熱狂した。しかし、それが必ずしも歓迎されたわけではなく、レジェやドローネーらがサロンへ出品して世間の関心を集めて大騒ぎされてしまうと、それが影響してかブラックやピカソはますます秘密主義になっていってしまったのである。だが彼らサロン・キュビストたちのお陰でキュビスムが(良い意味でも悪い意味でも)名声を得ていったことは指摘しておかなくてはならない。作品をしばらくパリに飾らなかったこの間、カーンワイラーは海外で彼らの作品が展示されるように計らっていた。そのお陰でモスクワやニューヨーク、ミュンヘンなどで彼らの作品が展示された。このことが世界的にキュビスムを知らしめることとなった。 その頃、色彩を抑えたやや難解な分析的なキュビスムの作品が製作されていた。ブラックもピカソも1911年前後、作品に(断片的ではあったが)文字を挿入することがしばしばあった。対象となる静物に新聞を用い、そこから文字を抽出して作品の中に配したのである。明確で現実的な「文字」を挿入・参照することによって、ある意味では難解な作品を抽象画ではなく地に足がついた現実的な具象画であることを主張したとも言えるし、また逆に挿入された現実的要素(断片的な「文字」)が難解さと相まってより抽象画のように見せもした。また1911年から、ブラックは葡萄の房やバイオリンが登場する作品を多数製作した。 それから翌年の1912年頃から、ブラックはカンバスの一部に丁寧に木目を描いたり、絵具に砂を混ぜるなど、後のコラージュやパピエ・コレに通ずる作品を製作した。そして最初のパピエ・コレの作品『果物皿とグラス』を製作する。
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