ガリレオ・ガリレイと数理物理学の幕開け
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「物理学の歴史」の記事における「ガリレオ・ガリレイと数理物理学の幕開け」の解説
17世紀には、自然哲学者はスコラ哲学の問題に継続的に取り組み始め、物理学や天文学に数学的な記述を適用すると、運動の特徴を正確に一般化して表現できることに気付いた。トスカーナ大公国の数学者ガリレオ・ガリレイはその中心人物であった。ガリレオの時代の大学での数学者の役割は、法学、医学、神学(哲学と密接に繋がっていた)の3大学問より劣るものとされていた。しかしガリレオは、技術的な法則に関する記述内容が哲学的な関心を引くと感じていた。これは、例えばニコラウス・コペルニクスによる太陽、地球、月、惑星の相対運動の分析のように、天体の数学的分析によって哲学者の述べる宇宙観、自然観に誤りがあることが示されることになるからである。ガリレオはまた力学的な実験も行い、それが自然なものであれ人工的なものであれ、運動そのものが数学的に記述可能な、一般的に共通した性質を持つことを主張した。 ガリレオは1609年に望遠鏡で発見した木星の衛星を元に1610年に『星界の報告』を出版し、数学と哲学の両方でメディチ家のお抱え学者の座を獲得した。メディチ家の哲学者として、彼はアリストテレスの伝統に連なる哲学者と議論することが求められ、1632年のDialogue Concerning the Two Chief World Systemsに続いて海外で出版されたThe AssayerやDiscourses and Mathematical Demonstrations Concerning Two New Sciencesでは世界中で多くの読者を得た。 運動に関する力学的実験や数学的記述に対するガリレオの興味は、実験に基づいた新しい自然哲学の伝統を樹立するに至った。この伝統は、ウィリアム・ギルバートやフランシス・ベーコン等の哲学改革者達の非数学的な主張とも合わさり、ガリレオの死後も、イタリアではエヴァンジェリスタ・トリチェリやアカデミア・デル・チメントの参加者、フランスではマラン・メルセンヌやブレーズ・パスカル、オランダではクリスティアーン・ホイヘンス、イギリスではロバート・フックやロバート・ボイル等、多くの学者に引き継がれた。
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