カローシュティー文書の発見とは? わかりやすく解説

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カローシュティー文書の発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/11 06:59 UTC 版)

カローシュティー文字」の記事における「カローシュティー文書の発見」の解説

両面ギリシャ文字カローシュティー文字記した硬貨知られ1840年イギリス東インド会社カルカッタ(現:コルカタ造幣局分析技師であったジェームズ・プリンセプによって解読された。この解読結果により、アショーカ王磨崖碑文も解読された。 1892年フランスの探検家デュトルイユ・ド・ランが、ホータン近辺カローシュティー文字書かれた『法句経』の断片発見した1901年1月ホータンダンダン・ウイリクの砂に埋もれた仏教寺院跡の発掘終えたばかりのオーレル・スタインは、ニヤ遺跡での第一回目の発掘調査行いカローシュティー文字書かれ多数木簡や羊の皮の文書発見した前年3月には、スヴェン・ヘディンタリム盆地東端楼蘭遺跡発見していたが、その1年後に、今度スタインによって、タリム盆地の西の沙漠中で、楼蘭王国実像を語る大量カローシュティー文字文書発見された。このときニヤ遺跡発見されたカローシュティー文書おおよそ430点であった1906年第二回目の調査では、ニヤ遺跡、エンデレ遺跡楼蘭各地点の遺跡から280点ほど、さらに1913年第三回目の調査では、新たにニヤ遺跡および楼蘭遺跡から50点ばかりを発掘したスタインはカローシュティー文書とはどういうのであるかを、ニヤ遺跡においてそれを発見した時の興奮とともに中央アジア踏査記』の中で詳しく語っている。 この発見によって当時鄯善国(クロライナ)および于闐国(コータンナ)の生活や、地名・人名発音がわかるようになり、西域諸国歴史空白部分埋め重要な手掛かりとなった1990年代以降アフガン内戦ともなって多く遺物アフガニスタンから海外流出し、その中にはカローシュティー文字書かれ文書もあった。ハッダから出土したカローシュティー文字樺皮文書29巻は1994年大英図書館寄贈された。バーミヤーン出土文書多くノルウェー蒐集家スコイエン(英語版)が購入し、その数は1万以上にのぼるが、その中にはカローシュティー文字大乗仏典賢劫経』の貝葉写本含まれる日本では平山郁夫林寺厳州入手したアフガニスタンパキスタン国境付近得られといわれる樺皮文書には『八千頌般若経』の巻1-5相当する部分含まれ放射性炭素年代測定によると1世紀後半ごろのものであるという。内容支婁迦讖訳の『道行般若経』より古い形を保っている。 詳細ガンダーラ語仏教写本参照変わった所では中国陝西省長安県石仏寺から1979年出土した仏像背面カローシュティー文字書かれていた例がある。また、洛陽からもカローシュティー文字書かれ碑文発見されている。

※この「カローシュティー文書の発見」の解説は、「カローシュティー文字」の解説の一部です。
「カローシュティー文書の発見」を含む「カローシュティー文字」の記事については、「カローシュティー文字」の概要を参照ください。

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