カルケミシュの征服とウラルトゥへの対処
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「サルゴン2世」の記事における「カルケミシュの征服とウラルトゥへの対処」の解説
前717年、サルゴン2世は小さいが富裕なカルケミシュ王国を征服した。カルケミシュはアッシリア、アナトリア、そして地中海の間の交点に位置するとともにユーフラテス川の重要な渡河点を管理し、数世紀にわたり国際交易から利益を得ていた。この小国は、紀元前二千年紀に栄えたヒッタイトの旧領土内にあるアナトリアとシリアの諸王国(英語版)に対し、ヒッタイトの後継者として半ば覇権的な役割を果たしており、その威光をさらに高めていた。 かつてのアッシリアの同盟国であったカルケミシュを攻撃するため、カルケミシュの王ピシリ(Pisiri)がサルゴンを裏切って敵に売り渡したという口実で、サルゴンは王国と結んでいた条約を破った。小国がアッシリアに対抗する手段は乏しく、カルケミシュはサルゴン2世によって征服された。この征服によってサルゴン2世はカルケミシュの巨大な国庫を接収することができた。これには330キログラムの精錬された金、大量の銅、象牙、鉄、そして60トン以上の銀が含まれる。カルケミシュの国庫から膨大な銀を確保したことで、アッシリア経済は銅本位から銀本位へと変化を遂げた。これによってサルゴン2世はアッシリア軍の大規模な拡大で膨れ上がるコストを埋め合わせることができた。 前716年の遠征では、現在のイランにあったマンナエを攻撃し、その神殿を略奪した。そして前715年、サルゴン2世の軍隊はメディア(英語版)と呼ばれる地域で村落や都市を征服し、財宝と捕虜をカルフへと送った。これらの北方への2度の遠征の最中、頻繁にアッシリアと敵対していた北のウラルトゥ王国が恒久的な問題であることが明らかとなった。ウラルトゥはティグラト・ピレセル3世によって制圧されていたが、完全に征服されたわけではなく、シャルマネセル5世の治世には再び王を戴いて繰り返しアッシリア領の国境を侵すようになった。 この国境侵犯はサルゴン2世の治世まで続いた。前719年と前717年、ウラルトゥはアッシリアの北部国境で小規模な侵攻を行い、サルゴンはこれを防ぐために軍を派遣しなければならなくなった。本格的な攻撃は前715年に実施され、その間にウラルトゥはアッシリアの国境にある22の都市を占領することに成功した。これらの都市は速やかに奪回され、サルゴン2世はウラルトゥの南部地域を破壊して報復したが、その後もウラルトゥからの侵攻が続き、その度に重要な時間と資源を浪費させられることは明らかだった。勝利のためには、サルゴン2世はウラルトゥを一度完全に打ち破る必要があったが、タウルス山脈山麓に存在するウラルトゥを攻略することは、それまでのアッシリア王たちには戦略的に不可能であった。アッシリアの侵攻を受けた時、ウラルトゥ人は通常、単純に山岳地帯に後退し再編成して戻ったからである。ウラルトゥはサルゴン2世の敵だったが、彼自身の碑文ではウラルトゥに対して敬意を示し、その素早い通信網、ウマ、運河網を称賛している。
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