カリフへの登位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:54 UTC 版)
684年の初頭までにマルワーンはシリアのパルミラか、ヤズィードの若い息子で後継者となったムアーウィヤ2世の宮廷が存在するダマスクスのいずれかの場所に滞在していた。しかしながら、ムアーウィヤ2世は即位後数週間で後継者を指名することなく死去した。その後、シリアの軍事区(ジュンドと呼ばれる)のジュンド・フィラスティーン(英語版)(現代のパレスチナ一帯)、ジュンド・ヒムス(英語版)(現代のホムス周辺)、そしてジュンド・キンナスリーン(英語版)(現代のアレッポ周辺)の総督は、ウマイヤ朝ではなくイブン・アッ=ズバイルへの忠誠を誓った。その結果、ボズワースによれば、マルワーンは「統治者としてのウマイヤ家の将来に絶望」し、イブン・アッ=ズバイルの正統性を認める用意ができていた。しかし、マルワーンはイラクを追放された総督のウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード(英語版)から、ジャービヤ(英語版)で開かれたウマイヤ朝を支持するシリアのアラブ部族の族長との会議中にムアーウィヤ2世の後継者として志願するように勧められた。 このイスラーム共同体の指導者の地位への志願は、地位の継承に関する三つの発展途上にあった原則の間の対立を露呈することになった。イブン・アッ=ズバイルの一般的な認識としては、最も公正であり優れたイスラーム教徒に指導者の地位を譲るというイスラームの原則に則っていた。一方、ジャービヤの部族長の会議でウマイヤ朝の支持者たちは他の二つの原則について議論した。ムアーウィヤの若年の孫のハーリド・ブン・ヤズィード(英語版)の推薦に象徴されるムアーウィヤが導入した世襲による継承、そしてマルワーンの場合に象徴される部族の指導的な一族の中で最も賢明で有能な人物を選択するというアラブ部族の規範である。 ジャービヤの会議の主催者であり、ヤズィードの母方の従兄弟で強力なカルブ族(英語版)の族長であったイブン・バフダル(英語版)は、ハーリドの擁立を支持した。しかし、ジュザーム族(英語版)のラウフ・ブン・ズィンバー(英語版)とキンダ族のフサイン・ブン・ヌマイルに主導された他のほとんどの族長は、ハーリドの若さと経験不足を上回るマルワーンの円熟した年齢と政治的な判断力、そして軍事経験を引き合いに出してマルワーンを支持した。9世紀の歴史家のヤアクービーは、マルワーンを賞賛するラウフの発言を引用している。「シリアの人々よ! この人物がクライシュ族の長であり、ウスマーンの血の仇を討ち、ラクダの戦いとスィッフィーンの戦いでアリー・ブン・アビー・ターリブと戦ったマルワーン・ブン・アル=ハカムだ」。 684年6月22日(ヒジュラ暦64年ズルカアダ月3日)に最終的な合意に達し、次の後継者としてハーリド、その後にはもう一人の著名な若いウマイヤ家の人物であるアムル・ブン・サイード・ブン・アル=アース(英語版)(アシュダクのラカブで知られる)がカリフとなる条件の下で、マルワーンがカリフの地位を継承することになった。そして後に「ヤマン」として知られるようになるウマイヤ朝を支持するシリアの部族連合(後述)は、マルワーンを支援することと引き換えにマルワーンから経済的な補償を約束された。また、ヤマン族のアシュラーフ(部族の貴族層)は、マルワーンに対して以前のウマイヤ朝のカリフの下で保持していたものと同じ儀礼上と軍事上の特権を要求した。そして、フサイン・ブン・ヌマイルはイブン・アッ=ズバイルが公然と拒否した内容と同様の条件の協定をカリフと結ぼうとした。これに対して、歴史家のモハンマド・リーハーンは、「シリア軍の重要性を認識していたマルワーンは彼らの要求に真摯に応じた」と述べている。また、ケネディは以下のように状況を要約している。「マルワーンはシリアでは何の経験も接点もなかった。マルワーンは自分を選出したヤマン族のアシュラーフに完全に依存していたであろう」。
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