カリフの失墜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 00:50 UTC 版)
その後10世紀にアッバース朝のカリフがアミールに政権を委ねるようになるとカリフは実権を失った。 アミールやスルタンの支配権を承認し、代わりに庇護を受け入れるだけの権威に失墜した。 さらにファーティマ朝、後ウマイヤ朝もカリフを称するようになって、スンナ派全体に影響力を及ぼすことさえ出来なくなった。 1258年にはモンゴル帝国によってアッバース朝のカリフが見せしめとして処刑され、アッバース朝は滅亡したものの、マムルーク朝は生き残ったアッバース家の者を首都カイロに迎え新たにカリフとして擁立し、外来者であるマムルーク出身のスルタンに支配の正当性を与える存在として存続させた。(カイロ・アッバース朝) 1517年、マムルーク朝がオスマン帝国に滅ぼされると、カイロ・アッバース朝のカリフムタワッキル3世は廃位された。
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