オリエント・ヨーロッパ世界
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「皮剥ぎの刑」の記事における「オリエント・ヨーロッパ世界」の解説
ギリシャ神話に登場する光と音楽の神アポロンは、サテュロスのマルシュアースと音楽の勝負をした。他の神を買収して勝利を得たアポロンは、「勝者は相手に何をしてもいい」との約束のもと、マルシュアースの全身の皮を剥いで殺した。 ヘロドトスの「歴史」によれば、アケメネス朝ペルシアの王カンビュセス2世は、職務を汚したと見なした判事を皮剥ぎの刑に処し、その皮で後任者が座る椅子を飾った。父親が皮剥ぎに処された場合、後を継いだ息子はこの椅子に座らなくてはならなかった。 ローマ皇帝のウァレリアヌスはサーサーン朝ペルシャとの戦に破れ、ペルシャ領内で皮剥ぎの刑に処された。ペルシャ王シャープール1世はその皮を赤く染め、神殿に掲げた。 キリスト教の聖人バルトロマイは皮剥ぎで殉教した。後の宗教画では、ナイフと自身の皮を持った姿で書き表される場合が多い。ただし使徒伝説は史実とは確認できない。 276年、マニ教の創始者マニは皮剥ぎの刑に処された。 415年、アレキサンドリアの女流哲学者ヒュパティアは、激昂したキリスト教徒の暴徒に取り囲まれ、異端者として蛎殻で皮と肉を抉り取られて殺された。 991年、イングランドを襲撃したヴァイキングは、住人を皮剥ぎに処した。 1199年、リチャード獅子心王は城攻めの最中、敵方の弓兵にクロスボウで射られ、その傷が元で崩じた。彼は死のまぎわ、自身を射た弓兵ピエール・バジルの勇気を讃え、罪を許した。しかし、王の死後にピエールは皮剥ぎで処刑された。
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オリエント・ヨーロッパ世界
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「腹裂きの刑」の記事における「オリエント・ヨーロッパ世界」の解説
地中海世界では、古くから腹裂きの刑が執行されていた。古代ギリシャやローマ帝国では単に腹を切開するだけだったが、オリエントでは、手足の肉を引きちぎる前章として罪人の腹を裂き、数メートルもの長さになる腸をウインチに巻き取り、晒し者にした。 303年、イタリア・フォルミアの司教・エラスムスは、ランゴバルド族によって腹裂きの刑に処せられ、腸を引き出されてウインチに巻き取られたのち、解体された。後に聖人とされたエラスムスの絵や像は、自身の腸を巻き取った棒を携えた姿で表される場合が多い。 ヴァイキングの社会には、独特の処刑法があった。罪人の腹を裂いて腸を取り出し、その腸を石柱に結びつける。その後は、罪人自身が石柱の周りを廻って自らの腸を巻いていく。全て巻きついたころに、事切れる。 1437年、スコットランドの王・ジェームズ1世が暗殺され、実行犯のロバート・グラハムは腹裂きに処された。 中世のドイツでは、他人の所有する樹木の皮を無許可で剥ぎ取った者は腸を引き出された上、その腸を皮を剥いだ木に結び付けさせられた。 中世のイングランドでは、大逆罪を犯した者は、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残酷な方法で処刑された。まず罪人を縛り首にして、事切れる直前に縄を切って蘇生させる。次に生殖器を絶ち、腹を裂いて内臓を露出させ、辛うじて息のある罪人に見せ付ける。最後に斬首して絶命させた後、四肢を解体して晒し者にした。
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