ウラマーの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 14:07 UTC 版)
「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事における「ウラマーの反応」の解説
ムハンマド・アフマドのマフディー宣言は、サンマーニーヤ教団や他の宗派の宗教指導者たちの間で信じられ、歴史的東スーダンの諸部族の間でも部族の垣根を越えて支持が広がったにも関わらず、正統的な宗教権威であるウラマーはこれを嘲笑した。とりわけ激しくムハンマド・アフマドを批判したのは、オスマン帝国のスルタンに忠実なスーダン人のウラマーであり、トルコ=エジプト政権(ムハンマド・アリー朝)に庇護されていた者たちであった。そのようなウラマーとしては、ハルトゥームの高等裁判所の指導者(ムフティー)であったシャーキル・アル=ガーズィー(Shakir al-Ghazi)や、クルドゥファーン地方の裁判所の判事(カーディー)であったアフマド・アル=アズハリー(Ahmad al-Azhari)がいる。 批判者たちはアル=マフディー思想の詳細に立ち入ってこれを否定することは慎重に避けた。彼らはむしろ、自分こそがアル=マフディーであるというムハンマド・アフマドの主張は信頼できるものではないと批判した。彼らはムハンマド・アフマドの宣言がハディース文献に散りばめられた予言と一致しないことを指摘した。特に彼らが問題としたのは、ムハンマド・アフマドがドゥンクラーに生まれたという事実、彼がファーティマ・ザフラーの子孫であるという証拠を欠くこと、真正なアル=マフディーの身体に現れると予言されている特徴が彼の身体には見られないこと、そして、彼の宣言がハディースで予言された「地に抑圧、暴政、怨嗟の声が満つ」「苦難の時代」になされたものではないこと、であった。 トルコ=エジプト政権の法的正当性へのムハンマド・アフマドの挑戦は、拡大解釈すればバーブ・アリー(オスマン帝国中枢)の支配の合法性を問うことにもなり、多くのエリート宗教者の反発を招いた。その一方で、彼の唱えたイスラームの教義と実践へのラディカルな変革の中には、諸国のエリートでないイスラーム法学者の見解を二分させるものもあった。特に賛否両論を沸き立たせたのは、スンニー派の四大法学派(マザーヒブ Madhahib, مذاهب)の廃止や、タフスィール(クルアーン注釈学)の長い歴史の中から生まれた権威あるテキストのすべてを拒否するといった変革であった。そのほかにも信仰告白(シャハーダ)の文句に「ムハンマド・アル=マフディー、ハリーファ・ラスールッラー(ムハンマド・アフマドは神の言葉を伝えし方の代理人である)」を付け加えることや、ムスリムの5つの実践義務(六信五行における五行)に関して、巡礼(ハッジ)に代えて聖戦(ジハード)の実行を義務とし、6番目の義務としてマフディーヤを信じることを入れるといった改革をめぐって、彼らの意見は二分された。
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