イルカオフィス時代
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1978年、当時のイルカオフィス社長だった神部和夫が立ち上げた、新人歌手を育てる企画のオーディションに参加、これにおいて『硝子坂』を唄うが合格決定とはならず、後日『翼をください』『時代』などをピアノの弾き語りで唄い合格する。このオーディションの際、ピアノ弾き語りの沢田にレコード会社は乗り気ではなかったが、神部和夫の目に止まり、合格にこぎ着けている。これには、イルカの産休からの復帰を機にイルカのファン層を同世代の女性をターゲットにする方針と、実力を兼ね備えたアイドルタレントを育てたいという事務所の思惑があった。元々これには、当時沢田と同じ事務所に所属していたタレントが当日、他のモデルの仕事が入ったために参加出来なくなり、これに穴をあけるわけにいかないとした事務所に行かされた代役での参加だった。沢田本人はオーディションの合格よりも、イルカのサインをもらうことに期待をしていたことや、華やかな歌謡曲歌手を想像していたこともあり、初めて人前で唄うピアノの弾き語りでの合格は戸惑いと驚きの結果だった。アマチュア経験もなく、モデル事務所の繋がりから受けたオーディションが、沢田の人生の大きな転機となった。当時音楽プロデューサーとして、レコード会社に異を唱える者の居なかった存在だった神部の強力な後押しもあり、「神部和夫さんと出会っていなければ、今の私はない」と、沢田は時折ステージで語っている。 1978年8月8日、16歳の時にイルカオフィスと契約。 1979年5月25日、クラウンレコードから『キャンパススケッチ』でレコードデビュー。「イルカの妹」というキャッチコピーにより、産休から復帰したイルカのカムバックリサイタルのステージにも立つ。以後、ライブを中心とした音楽活動、パーソナリティ活動などを積極的に行う。 彼女が活躍を開始した1980年代初頭においては、若い女性のシンガーソングライターは希少な存在であり、ルックスも相まって男性層からアイドル的人気を得た。80年代の女性ニューミュージックシーンを変え、アイドル性を持ったシンガーソングライターのパイオニア的な存在となる。1980年には学園祭出演数No.1を記録し、「学園祭のプリンセス」と呼ばれた。 その反面、自作曲のリリース比率が少ないことへの批判や、年齢相応の実生活での難局を迎えたり恋愛を歌う路線変更に苦戦して一時活動を休止するなど、その後続々登場する女性アーティストが直面する問題を先んじて経験することになった。
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