イリノイ地方の占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 05:50 UTC 版)
「イリノイ方面作戦」の記事における「イリノイ地方の占領」の解説
クラーク隊は1778年6月24日にコーン島を出発し、その旅には耐えられないと見なした兵士7名を後に残した。これらの兵士は島の家族と共に滞在し、そこの食糧倉庫を守った。クラーク隊の総勢は約175名となり、ボーマン、ヘルム、ハロード、モンゴメリー各隊長の下に4個中隊に編成していた。皆既日食のときに滝の急流を通過した。その日食を良い兆候だと見なす兵士もいた。 6月28日、イリノイ連隊はテネシー川河口に到着し、そこで島に上陸して旅の最終段階に備えた。通常の旅人ならばミシシッピ川をそのまま下って行き、その後船を漕いでカスカスキアに向かうところだった。クラークはカスカスキアを急襲しようと考えたので、そこからは陸路、現在のイリノイ州南端部を越えてカスカスキアに近付くことにした。その行程は約120マイル (190 km) だった。クラーク隊は、最近カスカスキアに行ってきたばかりというジョン・ダフが指揮するアメリカ人狩猟者が一杯乗った船を捕まえた。彼等はカスカスキアに関する情報を提供し、案内人として遠征隊に加わることに合意した。その夜、クラーク隊はマサック砦廃墟の近くでオハイオ川北岸に船を引き揚げた。この砦はフレンチ・インディアン戦争の後でフランス軍が放棄したものであり、減殺のイリノイ州メトロポリス近くにあった。 部隊は森のなかを50マイル (80 km) 行軍すると草原に出た。案内人が道に迷ったと宣言すると、クラークは裏切りではないかと疑い、道を見つけなければ殺すと脅した。案内人は気を取り直すと行程を再開した。部隊は7月4日夜にカスカスキア郊外に到着した。兵士達はもっと速く到着できると考えていたので、4日分の食料しか持って出ておらず、6日間かかった行軍の最後の2日間は食料無しに過ごしていた。ジョセフ・ボーマンは「空腹状態にあり、そのとき町を占領するか、そのときに死んでしまおうと全員一致で決断した」と記した。 部隊は夜半頃にカスカスキア川を渡り、一発の銃弾も放たずに素早く町を制圧した。ゲイジ砦では、アメリカ兵がほとんど守りの無い砦に突入したとき、ベッドの中で寝ていたロシェブラーブを捕捉した。翌朝クラークは町民の協力を得ようとしたが、仏米同盟の報せでそれは容易になった。町民はバージニアとアメリカ合衆国に対して忠誠の誓いを求められた。村の司祭であるピエール・ギボー神父は、クラークがカトリック教徒はバージニアの法の下に保護されると請け合うと、説得された。ロシェブラーブなどアメリカ人に敵対的と考えられる者達は捕虜として扱われ、後にバージニアに送られた。 クラークは間もなくその権限を近くのフランス人開拓地まで広げた。7月5日午後、ボーマン大尉が30名の騎兵およびカスカスキア住民の幾らかと共に派遣され、プレーリーデュロシェ、セントフィリップ、カホキアの町を確保した。これらの町は抵抗せず、10日間のうちに300人以上がアメリカに対する忠誠を誓った。クラークがビンセンズに関心を向けるとギボー神父が協力を申し出た。7月14日、ギボーと数人の者が馬でビンセンズに向かった。そこでは市民の大半が忠誠の誓いに同意し、サックビル砦を守る地元民兵も同様だった。ギボーは8月始めにクラークのところに戻り、ビンセンズの町が説伏され、サックビル砦にはアメリカ国旗が翻っていると報告した。クラークはヘルム大尉をビンセンズに派遣し、フランス人民兵の指揮を執らせた。
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